新刊「僕が僕に還る旅」、ようやく発売!
2006 / 08 / 31 ( Thu ) ようやく、待ちに待った新刊「僕が僕に還る旅」が発売されました!
今回は出版社さんが小さいところで、印刷部数も少ないので、大手の本屋さんでしか見かけないかもしれません。(実は、私自身もまだ、売られている現場を目撃してない!) なので、大手の書店がお近くにない場合は、近くの本屋でお取り寄せか、もしくは、アマゾンなどのネット通販をご利用いただくのが便利かと思います。 アマゾンでもようやく取り扱いが始まりました! (ひまわりクリニックのTOPページからも、リンクしています) 今回の本は、「童話」というか…「小説」形式です。 ちょっとストーリーをご紹介。 「ある朝、主人公の「僕」は目覚めると、あたり一面がスカイブルーに包まれた不思議な国にいた。現れた仙人は、『ここは未来の国というところで、再び地上に生まれ変わりたいと願う魂が集うところだ』という。 記憶をなくした「僕」は何がなんだかわからないまま、未来の国を旅し始める。そして、そこで出会った人々と話をする中で、「地上の人生」の仕組みを知る。 果たして、僕は「本当の僕」を取り戻せるのか? そして、僕の人生の結末はいかに??」 まあ、ようは、「僕」という「正体不明の人物」を通して、物語を読む中で、読者の皆様方にも、「自分探しゲーム」をしていただき、本を読み終わる頃には、 「そうかあ。もしかすると、自分はこんな目的を持って、この世に生まれてくることを決意したのかも…。人生に起こった、あんなこともこんなことも、もしかすると全部意味があって、素敵な未来を創る一つのピースになっているのかも。 自分の人生も、まんざらでもないなあ。自分が好きになった」 なんて思ってもらえたらいいなあ…という趣向です。 実は、内容は思いっきりスピリチュアル系。(ずっと、スピリチュアル系の本を書きたくて仕方なかった!) でも、スピリチュアル系の本って、どうしても怪しい感じの本が多いですよね。なので、そうしたことに全く馴染みのない人にも抵抗なく読んでいただけるようにと、童話の形にしてみました。 編集のお手伝いをしてくださった方々は、スピリチュアル関係の本にはほとんど無縁の方々でしたが、抵抗なく面白く読めたそうです。 だからといって、スピリチュアル系入門書の役割だけかというと、そうでもなく…。 仏教に精通されたある人に読んでいただいたところ、 「童話という、一見優しくてとても読みやすい形をとってるけど、実はここに書かれている理論を本当の意味で理解できる人って、何百万人に一人もいないと思う…」 とびっくりされておられました。 おっしゃる通り! よくよく読むと、内容は超深いんです。 実は、人生の節目節目で読んだ時に、違ったことが読めるように「隠しアイテム」をいっぱい仕込んであるのでありました! それを見破った人は超すごい!!…って感じ?(あなたはどんな「アイテム」を見つけられるか??) まあ、スピリチュアル系には関心のない人は、単なるファンタジーとして楽しく読めるし、ちょっとスピリチュアル系をかじってみたい人には入門書にできるし、それなりに道を極めた人には、「この単純な表現の中に、こんなすごい意味が隠されている!」という隠しアイテムを探せる…という趣向になっているわけです。 ついでに、私をよく知っている人たちに言わせると、 「どこを切っても、森津純子が出てくる…っていう感じ。今までの本の中で、一番、森っちゃんらしい!!」 と大笑いしてました。(そう言われても、どこがそうなのか、私にはわからない???) また、この本の編集にずっと付き合ってくださっていたHさんは、 「本を何度も読んでいるうちに、森津先生の思考パターンがわかってきたので、人生に問題が湧いてきた時に、答えがすぐに浮かんでくるようになった」 のだとか。 まあ、どんな形であれ、楽しんで読んでいただければ幸いです。 …ということで、新刊「僕が僕に還る旅」に興味を持った人は、売り切れる前に、本屋へGO!! |
感謝の心、謙虚な心
2006 / 08 / 24 ( Thu ) 最近、ふと、
「医者になったばかりの頃の謙虚な気持ちをいつの間にか忘れていたなあ」 と思う。 まだ研修医だった頃、初めて病院に入って愕然とした。 「世の中には、食事を食べることが許されない人、ベッドの上でまったく身動きができないまま一生を終わらなければならない人、薬や透析やペースメーカーといった医療の補助がなければ生きられない人など、『普通の生活』すらままならない人がなんてたくさんいるのだろう。 今日、食事ができて、自分で排泄できて、自分の力で歩けるって、なんて幸せなことだったのだろうか」 としみじみ痛感すると同時に、それまで気がついていなかった「今ある幸せ」に感謝したものだ。 また、先輩の医師から、おいしい食事を奢ってもらった時にも、 「こんなにおいしい食事を作っている店があるんだ! それを知ることができただけでも、医者になってよかった」 と感動した。 ところが今じゃ、そんな感動と感謝はどこへやら・・・。知識や知恵がついた分、気がつくと、「もっといい生活、もっと素晴らしいものがある。これじゃダメ」と、自分自身と世の中のアラ探しばかりしている自分がいた。 でも、人というのは案外、そんな風に「喉元過ぎれば・・・」という性質を持っているのかもしれない。 戦争を体験して、命の尊さや食べ物のありがたさや争いのむごさを知っている人たちですら、平和で豊かな世の中に生きるようになると、「こんなまずい食事を出して!」とか、「隣りの人が気に食わない」と、些細なことで文句を言ったり、ケンカをしたりする。 平和で豊かな毎日を過ごしていると、 「戦時中を思えば、食事が食べられて、布団があって、敵が襲ってこないだけでも幸せ」 とは考えなくなるらしい。 あるいはもしかすると、それはものすごく辛い経験をしたために「二度と同じような辛く不幸な経験をしたくない」と、必死で「辛さ」「不幸」を避けようとしてきた結果なのかもしれない。 「戦争当時のような惨めな生活はしたくない」と欠乏を恐れて、「もっと豊かで、不自由く、安全な生活に」と思うとついつい、がむしゃらに体を壊すまで働いたり、過敏なくらい安全を求めたり、周りの人を不幸にしてまでものし上がろうとしたりする行動に出ることがある。 また、「自分たちのような不自由で不幸な思いを子供たちにさせたくない」と愛情に転じたはずが、子供たちは、 「物質的環境的に恵まれていることが幸せ。不自由なく、豊かに、愛情をたっぷり注いで過ごさせてくれるのが、親として当然の努め」 と思うようになってしまい、親に感謝の心をもてなくなったり・・・。 「辛さ」や「不幸」を避けたはずが、かえってそうしたものを生み出すことになってしまっているのだ。 もしかして、「辛さ」や「不幸」を避けることに必死になるのではなく、 「起こる出来事は、すべて意味がある。どんな出来事も、自分にとってよりよい未来を創るために起こったもの。一見不幸に見える出来事も、幸せに繋げることができる」 と言いきれる自分を育てることに必死になったらどうだろうか? たとえば、戦争を体験してきた人たちの多くが、 「戦争という大変な経験をしたのは、普通の生活がどんなにありがたいかを学ぶためだったのかもしれない。辛かったけど、貴重ないい体験がでもあった。こうした経験を積んできた我々が、何気ない日々の幸せを大切に生きる姿を次の世代に見せていこう」 と生きてきたら、あるいは、世の中は変わったのだろうか? でも、過去に「もし」は通用しない。過去はもう変えることができないものだ。けれど、過去から学ぶことで、未来を変えていくことはできる。 だとしたら、私たちはどんな風に生きていけばよいのだろうか。 中学生だった頃、国語の先生がこんな話をしてくれたことがあった。 「私の祖母は、本当に食べ物を大切にする人だった。米を残すといつもこんな風に言っていた。 『たった一粒の米ができるのにも1年という月日がかかるんだよ。この一粒は、一年間のお百姓さんの努力の結晶なんだ。この一粒が、もし土に蒔かれれば、何十粒もの米が生まれるはずだったんだ。その命をいただいているからこそ、大切にしなければいけないんだよ』ってね」 この話を聞いて私は子供心に、 「大声で『物を大切にしなさい!』と怒鳴り散らして、子供の心を大切にしない大人たちより、なんて説得力のある生き方だろうか」 と思ったものだ。 問題のある生き方をしている人を責めるのは簡単だ。 でも、責めている自分自身も、もしかしたら同じような間違いを犯しているかもしれない。なぜなら、心というものは磨くことを怠ると、すぐに雑草が生えてきやすいものだから…。 だから、何か問題を発見したら、それを自分の鏡だと思って、 「ああ、私の中にも、そんな自分がいるかもしれない。人を正す前に、自分の心をしっかり見直そう」 と思える自分でありたい。 そして、最初に感動や感謝を味わったときの気持ちを大切に暖めていきたい。 でも、最初に感動を味わったときの強烈な感情は二度と味わうことはできないだろう。それでも、大切な感情は忘れずに、日々心を磨いていきたいと思う今日この頃。 |
自分磨き
2006 / 08 / 16 ( Wed ) がんばり過ぎてしまう人は、知らず知らずのうちについつい、
「こんなことくらいで音を上げてはいけない! まだがんばれるはず!」 と、ついつい己に鞭打ってしまいがち。 かくいう私も、そのタイプだったもので、近年では努めて、 「世の中、大変なことがあるのは当然だよ。ぐったり疲れ果てる日があってもいいよ。あまり「大変」が重なるときは、「大変」を見なくてもいいんだよ。ゆっくり休んでいいよ」 と、自分に優しい言葉をかける練習を積んできた。 ところが、いつの間にか今度は逆に、甘やかしモードに入ってしまっていたらしく、ちょっと努力すれば改善できることも、 「いいよいいよ。ここまでできるようになったんだもん。昔の私なら、できないことまで、できているもん。これ以上はがんばらなくていいよ」 といって、なあなあに過ごしていた。 たとえば、日々の生活をよりよい形にするために、 「一つ一つの行動に100%集中し、すべての行動を祈りと感謝にする」 という実践が大事だと頭ではわかっていても、 「一日中、祈りと感謝の中で過ごすなんて、めちゃくちゃ大変。朝と食事前と寝る前にしっかり祈ればそれで十分。それができるようになっただけでも、えらいえらい!」 などと、自分に言っていた。 確かに、祈ったり感謝したりする習慣が全くない人なら、朝晩祈る習慣ができるだけでも、素晴らしいことだし、十分すぎることだ。 でも、「さらに自分の生活をより磨くにはこうすればいい」という道がわかっていながら、一歩を踏み出さないのは、怠惰以外のなにものでもなかった・・・。 かといって、「一日中感謝と祈りの気持ち」でいられるほど、私も人間ができているわけじゃない。そこで、普段患者さんたちに言っているように、私自身も、 「まずは、心が伴っていなくてもいいから、形から入る。形が様になってくる頃には、自然と心も伴ってくる」 というところから始めることにした。 人間どこまで行っても、新たな課題が出てくるっていうのは本当だなあ。 きっと、人って、同じような課題を年を経る毎に、より深く学んでいくんだろうな。 テーマ:モノの見方、考え方。 - ジャンル:心と身体 |
素直になれない人々
2006 / 08 / 11 ( Fri ) ここしばらく、ものすごく頑固で疑り深い人々と出会うことが多かった。話を聞いてみると、そうならざるを得ない苦労尽くめの人生であることがよくわかった。ただ、今までのやり方を続けていくと、ますます大変なことになりそうなので、
「これまで、とてもご苦労されてきたことはとてもよくわかりました。ただ、今のやり方だと、お辛そうですよ。こんな風に考えて、このような生活にすると楽ではありませんか」 とアドバイスしてみた。ところが、頭では「新しいやり方の方が、確かに楽になりそうだ」と理解しながらも、「でも」「だって」「そうはいっても」とあれこれ言い訳をして、新しい道には二の足を踏んでしまうようだった。 それもその人の選択だから仕方ない…と思いつつも、 「同じようにアドバイスを受けても、『ああ、そういうことだったんですね! 目から鱗が落ちたようです。それならがんばれそうです』と素直に受け止めて、ひたすら真っ直ぐに歩いていける人ってすごいよなあ。性格が素直だと、人生も素直に真っ直ぐに伸びていくんだな。素直な方が得なのになあ」 なんてため息を漏らしてしまう。 でも、考えてみたら、私自身、相当疑り深い性格だ。 私の友人などは相当すごい能力者の占い師から、「あなたの人生にはこんないいことが待っています」と言われたら素直に信じ切ってしまう。だから、本当にそういう未来を引き寄せるが、私は同じように言われても、 「どんな能力者でも、読み間違いはあるに違いない。予想が外れた時にショックを受けないようにしなければ」 と最悪のケースを考えて行動してしまうタイプ。その結果、「最悪のこと」が起こる確率を増やしてしまったりする…。 でも、さらによくよく考えてみると、私自身、そうやって周りを疑って、疑って、疑い抜く中でしか、「自分にとっての真実」を見つけられなかったのだから仕方ないか、とも思う。私の今までの人生を振りかえってみた時に、「人を疑い、簡単には信じないこと」は絶対に必要な力だった。 たぶん、私が出会った「疑り深くて頑固な人たち」も、意味や必要があってそうなっているのだろう。「疑うこと」は、まだまだ彼らの人生にとって必要なのに違いない。 でも、いろいろな経験をして、「自分にとっての真実」が見えてきた今、私自身はそろそろ「疑り深い私」とさよならしたいなあと思う。 「素直な私」になって、「素直で真っ直ぐすべてを信じて、素直で真っ直ぐな人生を歩きたいなあ」と、つくづく思う今日この頃。 |
怪奇現象
2006 / 08 / 04 ( Fri ) 最近、すっかりお能もフラメンコも熱が冷めてしまい、練習もレッスンに行くのもすっかり怠惰になっていた。そこで、
「たまにはちょっと変わった練習をしてみるか」 と思い立ち、気功を取り入れた発声法と柔軟練習をしてみた。 ところが、十分練習できぬままお能のお稽古に行ったのは、ちょっとまずかった・・・。 師匠の目はやはりごまかせない。案の定、すぐバレた。 しかも、相当珍しい練習方法を試みていることまで見抜かれたらしく、 「思いつきで、わけのわからないことをやらなくてよろしい! 愚直にひたすら謡い続けていればいいんです!」 と怒られてしまった。 ところが、それでシュンとならないのが、私の小生意気なところ。 「なんの工夫もなく、愚直に謡ってたら人並みにしか上達しないだろうがっ! 人と違った工夫するから、人よりうまくなるんだよっ!」 と心の中で叫びながら、睨み返してしまった。きっと、オーラが見える人には、私の後ろに不動明王顔負けの真っ赤なオーラがメラメラと、天井を突き抜けるくらいに立ち昇っているのが見えたに違いない。 でも次の瞬間、ハッとした。 「今のセリフとシーン、どこかで見たぞ。ああ、『チャングムの誓い』のチャングムとシン教授のやり取りとそっくりーだあ! 」 と思ったら、心の中で大笑い。すぐさま、 「やばいやばい。このままだと、チャングムみたいに『わかってもらえていない!』と不満を引きずって、先生との攻防戦が続いてしまう。こういう反応の仕方はやめなきゃ。 ともかく、練習は自宅でやって、先生の前では無心に謡うことに専念すればいいってことよね」 とスパッと気持ちを切り替えた。 我ながら、本当に惚れ惚れするくらい見事な切り替えだった! (オーラが赤から一瞬で青に変わった感じ?!) 「きゃあ! 私ってすごい!」 と自画自賛しながら、ルンルン気分でパッと目の前の師匠を見たら・・・。 なんてことはない、師匠のエネルギーもまた一瞬にして変わっていたのだ! 恐るべし! さすが師匠! そして、新たな気分で稽古は続き、師匠の声が飛ぶ! 「そこは、そんなにか細く謡わない! それじゃ、ねずみのシッポのようでしょうっ! そうじゃなくて、もっと・・・」 と師匠が言い終わらないうちに、今度は私の目の前に「ふっさりシッポのキツネがにんまり笑っている姿」がポン!と現れた(これって白昼夢?!)。 思わず吹き出して、私が笑い転げるのと、師匠が、 「ふっさりしたキツネのシッポの様に・・・」 と言い出すのがまったく同時だった! ちなみに、これまでにも怪奇現象よろしくお稽古中に現れた動物は、クマ、ワニ、チーター、ウサギ、ゾウ・・・etc.いつも、師匠の言葉の一歩前に現れてくる。 その度に、私は大笑い。 これだから、やっぱりお稽古はやめられない。 |
| ホーム |
|