酔芙蓉 その2
2006 / 10 / 28 ( Sat ) 先日、花に詳しい知人に「酔芙蓉をいただいた」と話したところ、
「あの花は人の心に応えるのよ」 と教えてくれた。 半信半疑ながらも、「そんなもの?」と、花にいろいろ話し掛けてみて驚いた! まず、一つ目の花が咲き終わった後に、 「萎れた花もかわいいけれど、これが残っていると、他の蕾に栄養がいかなくなっちゃうかなあ」 とつぶやいたのだ。すると、1時間後には萎れた花がボトンと落ちてしまった! 次に花が咲いた時には、 「家族に花の色が変るところを見せたいけれど、15時まで用事で出かけてしまうの。ゆっくり変わってくれるといいんだけど…」 とつぶやいてみた。すると、本当に15時になって色が変わり始めた。 そして、花が萎れた後、再び、 「他の蕾に栄養を分けてあげたいから、萎れた花を切るよ。エネルギーを引っ込めてね」 と話し掛けて、鋏を取りに行って戻ってみた。 「なんだか、さっきより、花が縮んだような気がするけど…。気のせいかな」 と思いつつも、萎れた花をちょんと切ったら、ものの2秒で、今までの美しい花びらはどこへやら!見る影もなく縮んで枯れてしまったのだ! さらに、次に咲いた花には、 「近所のYさんに見せてさしあげたかったなあ。明日だったら、見せてあげられたのに…。一晩で萎れちゃうから、無理だわね」 とつぶやいてみた。すると、夜になっても色が変わらず白いまま! 翌朝も、ピンクに変わった姿で咲きつづけており、お隣りのYさんに見ていただいた1時間後、萎れてしまった! さらにさらに、 「明後日、Aさんが来た時に、花を見せたいけれど、この固い蕾じゃ、明後日は無理ね」 といったら、本当に明後日には咲いたのだ! こんな不思議なことが連続して起こると、 「やっぱり、本当に心が伝わるのねえ」 と信じたくなる。 結局、この不思議な花の虜になってしまった私は、どうしてもこの花を舞で表現してみたくなり、 「来年のお能の会では、ぜひ、花の精の役で「序の舞」を舞わせてください!」 と師匠におねだりをした。 さすがに、「酔芙蓉」という曲はないので、「杜若(かきつばた)」という曲を酔芙蓉だと思って舞ってみるつもり。杜若と酔芙蓉じゃ、全然似ても似つかないけれど、それはまあ、ご愛嬌。 実は、私は杜若の花はあまり好きじゃない。「杜若って、好きじゃないのよ」と思いながら舞うのは自分も辛いし、見てる方も面白くないだろう。だから、「杜若」という曲を舞台で舞うつもりは、今まで全くなかった。 でも、全く違う花のイメージであっても、「大好きなきれいな花」を想像しながら舞えば、私自身もも見ている観客も楽しいに違いない。 それにきっと、「この人は、杜若とは似ても似つかない花をイメージしながら舞っている」と気がつく人はそうそういないだろう。逆に、気づく人がいるかどうか、試してみるのも一興だ(でも、師匠にはバレそうだ…)。…なんて考えていると、とっても楽しい今日この頃だ。 ところで…。 お能のお稽古といえば、我が師匠はものすごーーーく厳しいことで有名な能楽師だ。たとえ、素人といえど、一切の妥協は許されない。お稽古では徹底的にダメ出しをされる。 なので、さすがの私もへこたれてしまうことがある。そんな時には、昔TVで見た「アタックNo.1」のワンシーンが頭に浮かび、主題歌の替え歌が頭の中を流れ出す。 『ダメだ、ダメだ!!鮎原、何やっている!そんなことで、インターハイが勝ち残れると思っているのか!やる気がないなら、出ていけっ!』 『コーチ!もう一回、お願いします!!』 ♪苦しくったって~、悲しくったって~、舞台の上では、平気―なの♪ …たぶん、学生の頃だったら、こういうスパルタレッスンの方が苦しいけど楽しくて、充実感や生きている実感が感じられて、素直に、 「ああ、充実した稽古ができたー!満足―!」 と思ったに違いない。でも、さすがに、齢を重ねた今だと、そんなことも言ってられない。かといって、他のお稽古事では学べない貴重な体験ができるので、辞めるのも惜しい。 「なんとか、もう少し楽しくお稽古を受ける方法がないかな」 と考えていて、先日、ハタと思いついた。 「そうだ♪ 『ダメ!』『違います!』『できてない!』『どうしてそうなるんですか!』と言われた言葉は、全部『北朝鮮語』だと思うことにしよう♪ 北朝鮮放送のナレーションって、すごくきついニュアンスに聞こえるけど、日本語に翻訳されてみると、『そういう内容だったのか。怒ってたわけじゃないんだ』と思ったりする。『あの喋り方が、北朝鮮っぽさよ』と言われれば、『そんなもんかな』とも思う。 同じように、普段は意識していないけれど、個人個人の職業とか、家柄とか、性格で、『医者っぽい喋り方や言葉』『教師っぽい喋り方や言葉』『皇室っぽい喋り方や言葉』などなど、独特のニュアンスの喋り方と言葉の使い方をしているものだ、 だから、私好みじゃない喋り方や言葉を聞いた時は、自分流に翻訳しちゃえばいいんだ♪ たとえば、『天使語(天使の言葉ってことね)』に翻訳したらば、ステキかも♪ 例えば、『ダメ!』『できてない!』は、『天使語』に訳すと、『もっともっとあなたは輝けるわ!』『あなたにはものすごい可能性があるのよ、大丈夫』ってことよね♪」 なーんて調子で、お稽古のご注意の言葉を片っ端から翻訳し始めたら、めちゃくちゃ楽しくなってきた。 「そうか、そうか! 師匠は、 『まだまだ、美しく舞える! もっと輝いた舞ができる! あなたの実力はこんなところ止まりじゃない。もっともっと伸びる!』 って、言ってくれているのかあ。 うーん、私ってば、そんな才能があるんだー♪ マジで、私の中にそんなに素晴らしく輝ける可能性が眠っているのー?! そっかー、こんなにも師匠は私の才能と可能性を買ってくれてたのねー♪(ホントかー。笑) うーん、すっごく嬉しい!!ありがたいなあ!!感激!!」 と幸せいっぱいになってきて、すっかり頬が緩みっぱなしで、ニマニマ笑いが止まらなくなってしまった。 やったあ! この方法はイケる♪ 今度から、嫌な言葉、困った言葉、辛い言葉を聞いたら、全―部、天使語に翻訳しようっと! ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() |
酔芙蓉
2006 / 10 / 14 ( Sat ) 横浜の病院の近くの家に、大きな酔芙蓉の木がある。朝、通勤途中で見かける時には、一点の曇りもない純白の花なのだが、夕方帰路につく頃には、見事な艶のあるピンク色に変わっている。いつも、
「どんな風にピンク色に変わっていくのだろう」 と興味深々だったのだが、いかんせん仕事があるため、色が変わっていく様は一度も見たことがなかった。 ところが、先日、酔芙蓉の鉢を頂戴した。 しかも、丁度花が咲いたところ。お蔭で、時々刻々と色が変わっていく様を一日眺めることができた。 縁からほんのりと少しずつ淡いピンク色に色づいていく様には、本当に自然の不思議な力強さを感じさせられた。 花を一日眺めていて、思わず、 「この花って、純粋で可憐でありながら、強い自己主張は全くないよなあ。しかも、密やかで、強風に吹き飛ばされてしまいそうな儚さがあるのに、艶やかに変化していく様子は力強い美しさを感じる…。この花を舞で表現できたらいいなあ。 来年は、花の精の役でも舞ってみるかな」 と、夢が膨らんできた。 酔芙蓉さん、しばしの夢をありがとう! |
習慣を変える
2006 / 10 / 05 ( Thu ) 昔はよく、好きな歌をテーマ別にダビングして、
「元気がない時にはこのカセット。自分を励ます時にはこのカセット…」 とシュチュエーションに応じた歌を聞く習慣があった。歌には随分、励まされたものだ。 ところで、ここ2年ほどこうしたカセットを聞いていなかった。先日、懐かしく久しぶりに聞いてみて、愕然とした! 「これって、確かに元気がもらえる曲だけど、よくよく聴いてみたらある意味では不幸オーラ満載じゃない!」 例えば、「辛いこともあるけれど、きっと乗り越えられる! きっと、幸せはみつかるさ」みたいな歌詞は、本当にボロボロに落ちこんで辛い時に聞くと、 「そうだ、そうだ、その通り! うんうん、きっと幸せになれる」 と、とても励まされる気持ちになるものだ。 でも、よくよく考えてみると、「今幸せいっぱいで、なにも不幸を持ってない人」は、こういう歌を絶対に聞かない。元気になった後も「元気がもらえる曲」を聞き続けると、知らず知らずのうちに潜在意識に、 「お前はまだ元気がないよ。元気をつけなきゃだめだよ」 と暗示をかけることになっていたのだ! つまり、落ちこんだ時に元気がでる曲を聞くのはいいけれど、元気になったらサッサと聞くのをやめて、いろいろな活動に専念した方が「より元気になれる」というわけだ…。 こんな風に、たまに客観的に自分の生活習慣を見直してみると、知らず知らずのうちにいいことをやっているつもりが、悪い暗示を潜在意識にかけている事に気づいたりする。 たとえば、ガンにかかった人の中には、必死でたくさんの健康食品をきっちり取り続ける人がいる。これって実は、「私は健康ではない」と暗示をかけることになっていて、かえって再発を呼び込む危険がある。 また、何かの達人になりたくて、必死で日々がんばりまくると、「私はその道の達人ではない」と自分に暗示をかけることになりやすい。 さらには、「情報に乗り遅れると困るから…」と新聞やニュースを徹底的にチェックすることで、いらぬ社会の不幸や不安をとり入れてしまい、現実には自分の身の回りにはなにも不幸は起こっていないのに、「今日も不穏で不幸な一日だった」と思い込んでしまったり…。 よくよく自分の生活を見直してみると、「問題ありの生活習慣」があることあること…。 でも、長年続けた習慣をやめるのは勇気がいる。だから、何かの機会に、まずは1週間とか一ヶ月、「習慣をお休みしてみて、自分自身の心の状態をチェックする」ことあたりからはじめてみるといいかもしれない。 たったそれだけで、案外、違う人生が開けたりするものだ。 |
幼子のように・・・
2006 / 10 / 01 ( Sun ) 最近、「幼子のように純真な者ほど、天国に近い」という言葉について、しみじみ考える。
たぶん、幼い子は「これがいいよ」と言われたら、理屈なんて考えずに、素直に「言われたことを真似する」という所が天国に近いのだろう。 でも、理屈っぽくて疑り深い私は、ついつい、 「それは本当に正しいのか。どんな理屈で、それをするといいのだろう」 と考えてしまいがち。 でもまあ、そのお陰で、「人の意見に惑わされずに、一番自分に合った道を見つけることができた」のだから、よかったのだけれど・・・。 でも最近では、「素直に理屈ぬきで、とにかく「いいと思うこと」を実践する」ということも大事だとつくづく思う。 たとえば、マザーテレサのように「出会う人はすべてキリストだと思う」という生き方とか、「毎日、毎瞬間、ひたすら「ありがとう」と言い続ける」とか、「ひたすら念仏し続ける」とか、「鏡を見て自分自身に「愛してるよ」という」とか・・・。 「知っているけど、実践してこなかった良い生き方」はいっぱいある。 そういう立派な生き方を実践している人の話を聞くと、ついつい「すごいなあ。でも、私はできない」と実行する前にあきらめの境地に達したり、「立派だと思うけど、そうすることで、本当に何かいいことがあるの?」と損得中心に考えたりしたものだ。 でも、以前、鬱々とした気分をどうにもこうにも切り換えられずにいた時に、「ともかく、般若心経を百回唱えてみよう!」と思い立ったことがあった。 心の中では、「百回読んで、どうなるものでもあるまいし…」とぶつぶつつぶやく声もあったのだが、もう一方の私が、 「だって運動したり、本を読んだり、瞑想したりして気分転換をする気力は、今はないわけだし、かと言ってボーっとしていると、鬱々とした気分に引きずり込まれちゃうんだから、それよりはましよ!」 と言うもので始めてみたわけだ。 すると、最初は形だけの念仏が、だんだん「そうだ!これってこういう意味だった」と心が自然と伴ってきて、百回終わる頃にはとっても気分がスッキリした。 この体験で、しみじみ、 「心が伴ってなくてもいいから、形だけでも「いいと思うことを実行する」というのは、大事なことなんだなあ。形が調うと、自然に心が沿ってくることも多々あるんだよなあ」 と痛感。 以来、ちょっと心配になったり、ちょっと不安になったりするとき、心は伴わないままに、呪文のように「大丈夫。大丈夫」「ありがとう。感謝、感謝」と唱えることにしてみた。 すると、しばらくすると、本当にそんな気分になってくるから、あら不思議! きっと、「すべてが神。天国は心の中にある」という教えなども、「どういう理由でそうなっているんだ」と理屈探しをしている人よりも、「そうなんだー」と素直に信じて行動する人の方が、早く神や天国にたどり着くんだろうなあ。 子供のような素直さ…心がけたいものだ。 テーマ:モノの見方、考え方。 - ジャンル:心と身体 |
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