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考えさせられたこと
2006 / 11 / 27 ( Mon )
最近、考えさせられたことが二つある。

一つ目。
先週の続きで、ドラマ「14才の母」の話。
14歳で出産を決意した少女は、「あなたのせいで、みんなが不幸になる」と友人達や周りの大人たちから散々なじられる。そして、家族もまた、いじめを受けたり、社会的地位を揺るがされたり、村八分に合って白い目で見られたり…という状況に置かれるのだが、少女はそれでも「自分の信じる道」を突き進む・・・というストーリー。
 
 めちゃくちゃ強い生き方だなあと、ひたすら感心してしまった。
 世の中のいろいろなことがわかった今の私ならば、
「他人の行動によって自分の幸せが脅かされるのは、自分の力で幸せを築いてこなかった・・・ということに過ぎない。自分が責任を持てるのは、自分の人生だけ。人の人生の責任まで取る必要はない」
 と客観的には思う。でも、昔の私があの少女の立場だったら、悩み苦しんだに違いない。
「友人、周りの人をはじめ、大切な家族を不幸にしてまで、自分の意志を通すことが果たしていいことなのだろうか。これだけ多くの人を不幸に陥れることと、一つの命を守ること、どちらが正しいことなんだろう」
 と考えぬいた挙句、最後は絶対、
「私の無責任が原因。周りを不幸にして、さらに、一つの命をも脅かすなんて、私ってなんて悪い人間。こんな私は、存在してはいけないのかも・・・」
などと自分を責めまくってしまっただろう。
たとえ子供を生む決意をしても、最大限、周りに迷惑をかけないよう自己犠牲の道・・・たとえば、「家を出て、一人でひっそり子供を生んで育てる」とかいう道を探してしまいそう(それでも、家族には心配をかけることになるけどね)。

でも、これが少女ではなく、母親の立場だったら違ってくる。
自分の娘が「子供を産みたい」といったなら、私は迷わずこう言う。
「堕ろすことではなく、まず、産む事を考えるなんて、エライ! さすがわが娘! 生まれた子供は家族みんなで協力して育てればいい! 文句をいうやつがいたら、『命を大切にしない今のご時世に、命を育てる選択をした人間を責めるなんておかしい! こっそり中絶すれば、世間体がいいはずなのに、あえて産む決意をした自分の娘を誇りに思う!』って言い返してやるから、大丈夫!」
と言い切って終わりだろう。
そう言われたら、周りの人も表立っては何も言えなくなるから、丸く納まってドラマにはならないはず・・・。

そんな風にあれこれ考えていて気がついた。
結局、私はいまだに「周りの人たちのためなら、大変を引き受けても苦にならないけれど、自分のために誰かが苦労をするのは耐え難い」という性格なんだなあ・・・。

でも、人生は持ちつ持たれつ。
ドラマのように、「一人で大変を抱え込まなくてもいいじゃない? みんなで乗り越えていけばいいよ」と支えてくれる人たちが周りにいるならば、そうした人たちに素直に甘えて、一緒に「山」を乗り越えていけば、何年か後には、
「大変な「山」だったけど、今となってはいい思い出だね。あの「山」があったお蔭で、みんなの絆が深まったね」
と言える日がくるはずだ。
主人公の少女の強さと素直さを見習いたいと思っている私である。

二つ目。
私が非常勤で通っている病院の院長先生は、「出かけるときはいつも手ぶら」なんだそう。必要最低限の物しか持ち歩かないから、上着のポケットだけで十分なのだとか。しかも、無理をして持ち物を減らしているわけでもなく、ポケットがパンパンに膨らんでいるわけでもない。
「いつも、このスタイルなんですよ。楽でしょ?」
と実に自然体。

私なんて、心配性の面倒くさがりやだから、降水確率0%でも、長い傘を持っていても、折りたたみ傘がバックに入っている。また、出張先やお稽古で必ず使う書類や本などは、その日の予定に合わせていちいち入れ替えるのが面倒くさいので、普段の日も入れっぱなし。当然ながら、バックの中身は増えることになる。
なので、院長先生のスタイルには、ひたすら感心してしまった。

バックの中身には「人となり」が現れる。
必要なものだけを絞って持ち歩く人は、人生全般において「自分にとって必要なもの」が整理できていて、必要なものだけを取捨選択して生きているということなのだろう。実に潔い生き方だと思う。

日々の生活の中で必要なものの多くは、常に所有していなくても、案外どこかで調達できることがほとんどだ。
だからこそ、何でもかんでも「持っているから安心」と所有欲に走ったりせずに、必要最低限の持ち物だけで、身軽に生きられるような潔さを身につけたいなあと思った。
23 : 03 : 02 | ひとりごと | page top↑
ドラマ
2006 / 11 / 17 ( Fri )
 最近、テレビドラマをあまり見なくなったのだが、先日、たまたま「14才の母」の前半総集編を見た。
 母親役の田中美佐子の演技がとてもよく、セリフも暖かくてジンとくるものがあった。
 なかでも、中学2年生で妊娠してしまった主人公の
「命の尊さとか、難しいことはよくわからない。でも、妊娠がわかったとき、両親がこんな私なのに、本当に大切に思ってくれた。母は『生まれたばかりのあなたを見たとき、「私はこの子に会うために生まれてきた」と思った』と言ってくれた。私もお腹の子に会うために生まれてきたのかもしれない。だから、この子に会いたいと思ったの」
というセリフが印象的だった。

 起った出来事の結果だけを見て、子供の言い分を十分に聞かずに、頭ごなしに怒鳴りつけて、大人の信じる「正しい道」を強要する親や教育者が多い中、果たしてどのくらいの親があのドラマのような暖かい対応が出来るだろうか。果たして、どのくらいの子供が世の中の正論にめげずに、「自分の道」を歩く決意ができるだろうか。

 「こんなにしっかりした親と子供ばかりだったら、ひまわりクリニックは廃業だなあ。こういう親子って、なかなかいないよね」
 とつぶやきながらも、ふと、脳裏をよぎったのは20年近く前の出来事だった。

 産婦人科で研修をしていたとき、高校3年生の少女が救急車で担ぎこまれてきて、出産したことがあった。大人たちが騒然とした中、少女は迷いなく分娩に臨み、無事出産した直後には、
 「皆様、お騒がせして申し訳ありませんでした。お世話になり、本当にありがとうございました」
 と挨拶までしたのだ。なんでも、
「中絶するつもりは全くなかった。でも、私が通っているのはカトリック系のお嬢様学校だから、妊娠がばれたら退学になってしまう。彼が中卒で苦労しているのを見ていたから、私は高校を卒業したいと思った。幸いなことに、医学書を調べたら、産まれるのは卒業の頃。『太った』といってごまかせば、何とかなるかもしれない」
 と思って、親にも学校にもひた隠しに隠してきたのだそうだ。そのため、体育も休まず、10キロのマラソンにも出たそうだ。出産当日は、追試を受けていたのだとか。
 「陣痛がきていたのはわかっていたけど、追試を受けないと、卒業できないから、必死で痛みをこらえた。試験が終わったとたん、我慢できなくて、救急車を呼んでもらった」
のだそう。

 ドラマを見ていて、
「あの時の少女は、この主人公以上に大変な思いを抱えて、生きていたんだろうなあ」
 とあらためて、あの少女に思いを馳せた。あの少女と産まれた子供は今ごろどうしているだろう。子供は高校生くらいになっているはずだ。
 今になってもう一度、あの時の少女に大きな拍手を贈りたい気持ちになった。
10 : 55 : 06 | ひとりごと | page top↑
日常における啓示
2006 / 11 / 06 ( Mon )
九州の旅があまりにも凄かったもので、家に帰ってから、順を追って起こった出来事を整理してみた。作業にはまるまる1週間かかってしまったが、こうして日々の出来事を客観的に振り返る時間を持つことの有意義さを痛感した。

 客観的に旅を振り返ってみると、旅行中に気づいたこと以上に、いろいろな偶然がかなり複雑に重なり合っていることがわかった。出かける日が一日違っても、乗るバスが一台違っても、観光する順番が違っても、起こりえないことがたくさんあったのだ。

 ところで、「偶然の一致が度重なること」はシンクロニシティ(以下、シンクロ)と呼ばれ、天からの「こんなことが起こるよ」「これに気をつけてね」「この方向でいいよ」というサインだと言われている。
 私自身の日常には、シンクロはよく起こるので、迷ったときや軌道修正をしたいときなどには、便利に活用している。
 ただ、シンクロによるサインは暗号のようなものなので、読み間違えることも多々あり、「期待しすぎて期待はずれだった」なんてことも少なくない。また、自分に都合のいいサインだけ読んで、都合の悪いものは無視していたこともあった。そんなこんなで、最近ではシンクロが起こっても、
「ああ、またシンクロね。でも、大した意味はないかも・・・」
なんて、おざなりに受け止めていたような気がしてならない。

 でも、今回の旅のお蔭で、
「シンクロによる啓示は正確に読み解けば、人生の予告灯としてかなり便利に使える。また、日常の中には見逃している啓示がたくさんある」
 と、いやというほど学ばされた気がする。

 なので、旅から帰った後は、旅の間にもらった啓示を大切にすることはもとより、日常生活の中に転がっている啓示を大切にして、人生の流れにうまく乗って生活していきたいなあと強く思うようになった。
21 : 41 : 33 | ひとりごと | page top↑
九州への旅
2006 / 11 / 05 ( Sun )
先週末、九州に行ってきた。偶然が重なって、たまたま行くことになったのだが、筆舌に尽くし難いほど不思議なことがたくさん起こった旅になった。

おそらく、これほど不思議な体験が重なる旅は、一生に一度あるかないかだろう。
 あまりにもいろいろありすぎたので、書き始めたら小冊子一冊分ぐらいになってしまいそう。なので、読者の皆さんにも参考になりそうな話だけご紹介。

 まず、飛行機が空港着陸する寸前、大きな龍の形の雲が現れて、一緒に空港に向う形になった。飛行機が着陸した時には消えてしまうほどの、ほんの一瞬の出来事だった。
 以前から、話では「見る能力がない人には、龍のエネルギーは雲の形や鯉などを通して現れる」と聞いていたけれど、懐疑的な私は「自分の目で見ないことには信じない」し、心のどこかで「自分に都合よく、物事を見ているだけじゃないの?」と思ったりもしていた。

 ところが、現実に、鱗模様、尻尾、頭、目まで、くっきりはっきり立派な龍の形の雲を見せつけられると、「龍のエネルギーが雲を形創る…というのは本当なのかもしれない」と思わざるを得なくなった。
仮に、龍のエネルギーなど存在しなかったとしても、
「ああ、神のご加護が得られた!大丈夫!」
と確信して迷いなく突き進んでいく人は、その強い思念で「神のご加護のある未来」を引き寄せるのかもしれない。
真実はどうあれ、「信じるものは救われる」という言葉は、こういうところからくるのだろう。
 
 また、この旅では、「人生で起こる禍は、こうして幸いに転じる。流れを大切にすると、人生はスムーズに流れる」ということをくり返し教えられることになった。
 例えば、訪ねようと思った神社が「行く流れ」にあるときには、近道を教わったり、神主さん、ガイドさん、猫などの案内人がついたり、銅鑼がなったり、年一回の例大祭があったりと、「お迎えしています」という合図が必ず何か起こった。
でも、「避ける流れ」があるときには、参道に倒木があったり、地図を見過ごしてしまったり、通り過ぎてしまったりした。すごかったのは、鳥居を完全に塞ぐ形で、トラックがはまりこんでいた神社があったこと!(あんなの見たの、初めて!)

ちなみに、いろいろなことに敏感になってみると、神社やパワースポットといっても、必ずしも、いいエネルギーだけをもらえる場所ではないことがよくわかる。自分に合わない場所に行ってしまうと、かえって悪いエネルギーをもらって具合が悪くなることだってある。

例えば、有名なE氏がスピリチュアル・スポットを紹介する本で、「体調を調えてから出かけた方がいいでしょう」と書いている「天安河原」。どんな願いでも叶えてくれるご利益のある場所とされているけれど、体調の悪い時は、絶対の絶――――対に行かない方がいい!
ちなみに、行かない方がいい時には、本人が気づくか、気づかないかは別として、ちゃんと邪魔が入るものなのだ(私の場合の、倒木やトラックのように)。こういう流れを無視して、現世利益に目がくらんで、「なんとしてもご利益を得なくっちゃ」と、倒れている木を乗り越えたり、トラックの横を擦りぬけたりして、無理矢理参拝しようとすると、苦労多くて実りなし…ってことになる…。気をつけたいものだ。

 逆に、今回の旅では「禍転じて福となる」という経験もいっぱいあった。バスに乗り遅れたお蔭で、思わぬ素敵な観光ができたり、道に迷ったお蔭で翌日に乗るべきバス停を確認できたり…。
極めつけが、空港に向うバスが遅れた上、私自身がチェックイン場所を迷って、搭乗手続きがギリギリになったお蔭で、なんと普通席で予約したのにプレミアムシートの窓側に座れたこと! たぶん、満席だったので、最後の席はそこしか空いてなかったのでしょう! 

 本当に、最後の最後まで「こんなにすごい偶然が重なりまくって、天からの啓示(応援?)をたくさんもらって、本当にいいの?」と言いたくなるような旅でした。
 龍神様、本当に素敵な旅をありがとう!
23 : 06 : 46 | ひとりごと | page top↑
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