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禍転じて福
2007 / 01 / 24 ( Wed )
ものすごい苦境の中で光を探し出すのが得意な私も、案外、日常の些細な禍に弱かったりする。
禍が降ってくると、「ガーン!ショック!!」としばし呆然と打ちのめされていたり、「大変」が重なったときには「今はそういう流れなんだから仕方ない」と自分に言い聞かせて、あきらめていることも多かった。
でも最近、日常の中で「禍転じて福」にするのがうまくなった気がする。

 一瞬ショックは受けるのだけれど、すぐさまハッと気を取りなおして、
「一見「禍」に見えるこの出来事が「福に転じる流れ」はどれだろう?」
 と、見回してみる。すると、あるある・・・。
「この「禍」を逆手に利用して、こんな風に動いたら、もっと幸せがつかめるかも♪」
 という道が必ず一つや二つ出てくるのだ。

 特に、なかなか思いつかないような「ナイスな流れ」を発見して、「禍」がよりビックな「福」に転じられたときには、最初から「福」をゲットするよりずっと面白くて充実感がある。

 ついでに、「流れ」の転じる瞬間が見えるようになったのも楽しいことだ。
人も、集団も、世の中も、大きい変化が起るときには、「変化が目に見えるようになる」前に、必ず「目に見えないエネルギー」が方向転換するらしい。
 「心」がよい流れに転じると、程なくしてその人を取り巻く「エネルギー」がよい流れに転じる。すると、徐々に「現実」がよい流れに転じるというわけだ。

 特に相談を受けていると、本人より先に「幸せな未来」を垣間見られる瞬間がある。これは私にとって最大の楽しみな時間だ。
きっと、私が相手の「幸せな未来」を信じることで、より確実に相手の人が幸せになれるから、ちょっとだけ先に「幸せ」が見せてもらえるのだろう。なんとも役得な仕事だ♪
18 : 24 : 24 | ひとりごと | page top↑
「道」を選ぶ
2007 / 01 / 20 ( Sat )
思いもよらない時に、「リストラ、転勤、転居、離婚…」など、人生に危機的な問題が起きると、ついつい「私の人生、最悪の方向に進むんじゃないか」と思ってしまいがち。
 でも、そうした出来事がきっかけで、今以上の幸せをつかめることも少なくない。「夜明け前が一番暗い」という言葉があるように、素晴らしい幸せを掴む前には、真っ暗闇の中に落ちたように感じることがある。
なぜなら、新しい素晴らしいものを入れるスペースを空けるためには、それまでの古い人間関係や古い生活習慣を一切合財捨てる必要が出てくるからだ。

 だから、もし、自分なりにできうる限りの努力をしても、道が閉ざされてしまう時には、腹をくくって、今の道を手放した方がいい。そして、信じられなくてもいいから、
「ああ、これは「不幸」じゃない。私の生き方のレベルが上がったから、新しい私にふさわしい新しい幸せなステージが用意されるのだ」
と自分に言い聞かせて、新しい自分に生まれ変わったつもりで再出発してみよう。すると、トントン拍子でいい運気が引き寄せられて来る。
ちなみに、できるだけいい運を引き寄せるコツは焦らないこと。焦って、目先の欲に目がくらんで、手近なものに飛びつくと運を逃しやすいから注意。ちゃんと、自分の心と相談して、「ああ、これはいい!」と思う転じ方を選ぶことが肝心だ。

また、「人生を変えたい」と一生懸命努力して、「生き方」「考え方」「生活」を改善しているのになかなか効果が上がらない時には、意識的に「転職、転勤、転校、別居、離婚、結婚…」という手段を取って、人間関係や生活をリセットするのも一つ。リセット前後は大変かもしれないけれど、その後はずっとラクになる。
なぜなら、どんなに自分が変わっても、身近な人ほど「Aさんはこういう性格」というレッテルをなかなかはずしてくれないからだ。そのため、どんなに内面が変わっても、身近な人から、
「こんなところも、あんなところも昔のままだから、何も変わってないわよ」
といわれてしまい、その言葉に足を引っ張られて、前へ進めなくなってしまいやすい。
でも、新しく出会う人たちは先入観なく「その時のAさん」を見てくれる。努力したことがすんなり認められるので、本人も自信がついて、あっという間に自分も人間関係も変わるというわけ。

また、「生活全てをリセットなんて大変」と思う時には、「心持ちを変える」のと一緒に、今まで全くチャレンジしたことのない服装や髪型など、外見を「プチリセット」するのがお勧めだ。
コツは、「新しい自分だったら、こんな色で、こんな服装が似合うんじゃないか」と「新しい自分」に似合う外見を整えること。色や形そのもののエネルギーも、「変わること」を助けてくれるし、自分自身も「新しい自分に変わった」と実感しやすい。
それになにより、「心」が変わってもなかなか認めてくれない身近な人も、「外見の変化」ははっきり認めてくれやすい。
「変わったね!」
と周りの人たちからいわれれば、自信もついてさらに、「新しい自分」に生まれ変わりやすいもの。
お試しあれ。

ところで、最近、「今の自分が幸せになると感じる方の道を選ぶ」という単純なことが、多くの人にとっては、案外難しいことなんだなあと痛感している。
多くの人は、「未来に繋がる可能性が少ないかも」「過去に失敗したから」「一般的に認められないから」「人から責められるから」「正しい道じゃないから」「人に迷惑かけるから」…などと、あれこれ理由をつけて、「今幸せになる道」を選べない。だから、「今、不幸」になっちゃうんだよね。
「今、不幸」を選ぶ習慣が続いていると、どこまでいっても未来は「不幸」のまま。
でも、「今幸せ」選べる習慣ができれば、どんな未来が来たって、必ず自然に「その時、幸せと感じる道」を選ぶから、不幸になりようがない。努力しなくたって、必ず幸せでいられる…というわけ。

たくさんの人が、「自分が一番ラクで、幸せな道」を選べるようになるといいなあ!

テーマ:モノの見方、考え方。 - ジャンル:心と身体

17 : 04 : 08 | 心とからだ | page top↑
自分を知る
2007 / 01 / 10 ( Wed )
 物心ついた頃から、誰に教わったわけでもないのに、新年を迎える時に欠かさず行っている習慣がある。
「過ぎ去り行く年を振りかえって一年の総まとめをし、感謝を捧げ、厄を祓う祈りを上げる。新年になった瞬間、迎えた年に挨拶、感謝し、新たな一年を寿ぐ祈りを上げる」
 というものだ。
 
 私の中には、
 「この『年越しのお祈り』の時間だけは、絶対誰にも邪魔されたくない! このお祈りをしなければ、年越しとはいえない!」
 という妙なこだわりがあって、年越しが当直に当たった時にも「どうか、お祈りの時間、急患が来ませんように」と、事前に必死で祈ったものだ。その甲斐あって(?!)か、今まで一度もお祈りの中以外で新年を迎えたことがない。

 そんな話を聞くと、「きっと信心深い家なんだろう」と思われるかもしれないが、我が家はいたって普通の家で、せいぜい仏壇と神棚に手を合わせるくらいの信仰しかない。
 だから、時々「なんで私はこんなにも新年の迎え方にこだわっているんだろう」と思うことがあった。

 そこで、今年は奉納能を見に行くということもあって、
 「よし。今回の年越しは自分自身の殻を壊そう。毎年続けているお祈りの習慣にこだわるのはやめる! 与えられた新年の迎え方を受け入れよう」
 と決意した。とはいえ、40年近く続く習慣をやめるのは勇気がいる。
 
 そして迎えた年越し。
 神社では新たな年を前にして、行く年に感謝し厄を払う祝詞が上がり、新年になると同時に寿ぎの雅楽、祝詞、舞が奉納された。
 自分の中でなんの違和感もなかったどころか、
「ああ、私がやってきた年越しの洗練された形が目の前にある。私が求めていた年越しはこういう形だったんだ。今までの人生の中で、一番私らしい年越しができたかも…」
 となにか自分の中でカチッとはまるものがあった。

 もし、魂の中に記憶のカケラが残るのだとしたら、私は間違いなく、その「記憶のカケラ」に突き動かされて、物心ついた時から年越しの祈りを上げていたに違いない。
 なんだか「昔の私」に出会ったようで、懐かしく嬉しい時間だった。

 (ちなみに、日枝神社の若水祭に関心のある方は、私のお稽古仲間の「言の葉庵」の庵主さんのブログに飛んでみてくださいね。解説がとても分かり易いです。
http://nobunsha.jp/blog/post_45.html

 また、今年の正月は、事情があって弟一家がこられず、私も出かけてしまったこともあり、我が家としてはとても変則的な形になった。
 それがまた、「家族」というものを見直す機会にもなったように思う。
 もしかすると、今年の正月が転機となり、家族それぞれがそれぞれの人生をしっかり歩きながら、今までとは違った形で「新しい家族の結び付き方」を創り出していくのかもしれない。
でも、「家族の形」が変わっていくことに、昔感じていたような不安や悲しみは感じない。過ぎ去り行くものへの一抹の寂しさは感じながらも、それ以上に、それぞれの新しい出発が力強い幸せを生み出すもののように感じるからだ。

また、年が変わってから、あちこちから、
「今年はパワフルな年になるよ。波に飲まれると渦に巻き込まれて大変なことになるけど、うまく波に乗れるとビックな幸せを掴めるよ。流れに逆らわないことが、チャンスを掴むコツだよ」
というメッセージが落ちてくる。
今年は変化を楽しみながら、力強く波に乗って前へ進んでいこうと思う。
22 : 50 : 08 | ひとりごと | page top↑
新年の流れ
2007 / 01 / 05 ( Fri )
明けましておめでとうございます。
素敵なお正月を迎えられましたでしょうか。

私は例年ならば、家か病院で新年を迎えるのですが、今年は日枝神社で新年を迎えました。お能の師匠が日枝神社の「若水祭」で午前0時に「独り翁」の奉納能を舞われることになったからです。
神社での年越しは、いろいろなことを考えさせられる実りあるものになりました。

一番印象深く感じたのは、
「同じ場に居合せて、同じ現実を見ていても、体験することは人それぞれ」
ということでした。

例えば、早めに神社に着いてうろうろしていたところ、神社のスタッフの勘違いのお蔭で、入れるはずのない社務所の中に入ることができました。私は、
「普通の人が見られない社務所の内部が見学できた上、ここにしかないパンフレットをゲットしたら、そこに龍神さまの写真が載っていたなんて、ラッキー♪」
とホクホクしていたのですが、人によっては、
「あちこち連れ回された上、「ここは見学者が入るところじゃありません」と注意された! 私のせいじゃないのに! ひどいとばっちりだ!」
と思ったかもしれない状況でした。

さらに、神社周辺を散策していたところ、新年の準備のため、神社の倉庫が一瞬だけ開いている所にも遭遇。またしても私は、
「龍の太鼓と神輿がある! 龍神さまのご加護かも♪」
とルンルンしていました。でも、同じ倉庫の中を見ていても、他の人は太鼓の上の鳳凰に目が行く人あり、神社の紋章に目が行く人あり、大きな脚立に目が行く人あり…。もしかすると、人によっては、
「早く着きすぎて、待たされて時間がもったいない上、こんな準備でわさわさしているところに遭遇して、幸先が悪い」
と思ったかもしれません。

そして、拝殿に案内される時間は例年よりかなり遅かったらしく、毎年若水祭に出席している人々は、
「今年はどうしたんだ! いつ案内してくれるんだ!」
とイライラしているようでした。でも、「例年」を知らない私は、
「まあ、始まる前には絶対入れるんだから…」
とのんびり待つことができました。

極めつけは、拝殿に入る時、私は後ろから行き追いこんで割り込んできた人々にぶつかられて押し出され、最後の方に入場するハメに…。当然、端の席しか空いてなかったのですが、これが不幸中の幸い! なんと私の席、最初から最後まで師匠を最高にいい位置で見られる席だったのです!!(最初に入っていたら、全く見えなかった状況)

そして、奉じられた能は祭壇の神に向かって舞われ、「これぞ、奉納舞の原点。神に感謝を捧げるってこういうことか」と感じました。でも、人によっては、
「観客は、正面から舞を見られないなんて、つまらない。カメラマンだけは正面から見られていいなあ」
と思っていらしたようです。

また、拝殿の中は本当に不思議な空間でした。
後ろから、大勢の参拝客の賽銭を投げる音、鈴を鳴らす音、祈る声、一年の願をかける必死の願いのエネルギーがうわーっと押し寄せてくるのです。
「ああ、神様って、お正月にはこんなに凄まじいエネルギーでお願いをされまくっているのね―。大変なお仕事だわー。それに、人が願をかける時のエネルギーって、すごいパワーがあるのねー」
なんて感心する反面、
「体調の悪い人が拝殿の中にいたら、大勢の人の欲望エネルギーをもろに大量に浴びてヘロヘロになって、ぐったりしてしまうかも…。このエネルギーって、九州の天安河原にあったエネルギーと同じだわ」
とも思いました。
実際、「賽銭の音がうるさくて、祝詞や謡いが聞こえなくてがっかりした」と言っておられる人もいましたし…。

そして、若水祭終了後、あらためて正面にまわって、お参りすると、なんと社殿の丁度正面真上には幻想的な月がぽっかりと浮かんでいるではありませんか!
あまりにも不思議で幻想的な風景に息を呑むばかりでした…。
でも、参拝することに夢中になっている人々は、こんなに素敵な風景が目の前にあっても、気がつかないに違いありません。あの素晴らしい風景を目にした参拝客は、果たしてどのくらいいたのでしょうか…。

同じ現実を共有していても、見ている人の心が違ったり、見ている位置が違ったりすると、いかに全く違う体験に感じるか…。そればかりか、「見ていなければ、体験していないのと同じ」になってしまう…とも痛感。

私にとっては、昨年の九州旅行と同じくらい「神のご加護を感じた年越し」でした。
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