電化製品
2007 / 02 / 23 ( Fri ) 人生の転機には、肉体のエネルギーが変わるせいか、電化製品が壊れやすくなることがあるようだ。
特にパソコンはデリケートなせいか、私の場合、人生の転機には必ずといっていいほど、壊れるか初期化する羽目になる。 今回も個人使用のパソコンが完全フリーズしてしまった。なので、しばらくメールが使えない状態。 ひまわりの電球もショートさせてしまったし…。 パソコン、買い換えるか、初期化で乗り切るか・・・。微妙なところだ。 |
変えられないこと
2007 / 02 / 16 ( Fri ) 最近、ふと、
「起こる予定になっている出来事を「起こらせないように」とか、「もっといい形に起こらせよう」とか、「早く起こそう」などと、知らず知らずのうちに躍起になって、がんばってしまうことって、日常の中に多々あるなあ」 と思う。 例えば、地震や津波などの災害は起こる時には起こる。誰にも止めることはできない。人も、死ぬ時期がきたら必ず死ぬ。それも誰にも止められない。 そうした大きな出来事だけでなく、怒りっぽい性格の人は、周りがどんなに努力しても怒る時には怒るし、不安症の人は、どんなに周りがサポートしても不安を止められない時がある。 人はよく、「自分の対応が悪かったから、ああなったこうなった」と、反省モードに入ってしまいがちだ。でも、完全に自分自身のことなら変えることは可能だけれど、自分以外の人や出来事は努力しても、変わるか変わらないかは「その時の縁」でしかない。 よく、「家族がガンで亡くなった。あの時、ああすれば助かったのじゃないか」と、相談に見えられる方がいる。でも、よくよく話を聞いてみると、家族はできる限りのことしているのだけれど、本人が頑固な性格だったり、老衰の一つの形だったりして、運命を変えられない状況にあったことがほとんどだ。 ガンが治るかどうかは、最終的には本人次第。本人が気づくか否かは別として、「治りたかったら、そっちの道へいっちゃ行けないよ」というサインはどんな人の人生にも出ている。でも、どんなにたくさんのサインが出ていても、周りの人がどんなに努力しても、本人自身が「治る道」を選ばなければ、治ることはない。 (ちなみに、治らない人の多くは、「自分自身の生き方は変えたくない。自分は変わらなくても、神様のような治療者に巡り会えれば、治るに違いない」と自分の人生を人任せにしがち) 日々の小さな出来事の中で、「これは変えられること。こっちは変えられないこと」を見極めて、うまく人生の波に乗っていくのは、案外奥深い問題だ。 どうせ努力をするなら、「嵐がこないように」と天に向って大きな団扇を振るよりも、「嵐が来ても安全に過ごせるように」と家の修理をした方がいい。それでも、ものすごく大きな嵐の時には、家が壊れてしまうことは避けられないかもしれない。 そんな時、「ああ、なんて私たちは不幸なんだろう。家を失うなんて」と思うこともできるけれど、「家を建て直すチャンスを授かったのだ。国や自治体の援助を受けて建て直しができるなんて、普通に建て直すよりラッキーだ!」と思うこともできる。 起こる出来事は避けられなくても、それに対する自分の反応(対応、気持ち)はいくらでも選べる。 「起こるべきことが起こるべき時に起こるのを見守り、最善の対応をする」 のが人生の極意だと思うのだけれど、なかなか言うは易し、行うは難し。 案外、ルナ子のように、素直で先入観のない幼子のような性格だと、一番いい形で波を乗り切っていくのかもしれない。 |
人生はディズニーランド?!
2007 / 02 / 11 ( Sun ) 最近、自分の未来はよくわからなくても、他人の未来が感覚的に垣間見られる時がある。 「ああ、この人はこんなに面白くて素敵な「未来」に辿り着く予定なんだ。きっと、今はわざと寄り道をしているのね。真っ直ぐに目的地に着いちゃったらつまらないし、寄り道をしてたくさんのお土産をゲットすると、目的地で待っている人がすごく喜んでくれるのかもしれない。楽しそうだなあ…」 という感じ。 もしかすると、人は皆、自分の楽しい人生ドラマを終わらせたくなくて、わざといろいろな困難や課題を盛り込んでドラマを引き伸ばしているのかもしれない…とも思う。 なにも事件が起こらず、同じ映像だけが映っているドラマなんてつまらないし、ニュースだって大々的な事件が起こった時の方が視聴率が上がる。 みんな、「辛さ、悲しさ、苦しさは、人生に存在して欲しくない」といいながら、案外、人生にドラマを求めている。 その証拠に、高級老人住宅に入居して、素晴らしい部屋で生活して、たくさんのスタッフの手厚いケアを受け、レストランのような素晴らしい食事を食べて…と何不自由ない「擬似天国」のような暮しをしながら、不安に襲われる老人のなんと多いことか…。目の前にはとりあえず、なにも不安も不足もないにもかかわらず、彼らは、 「何もしなくていいんだろうか」 「人のケアを受けるだけなんて、価値のないゴミ人間になった気分だ」 「そのうち、何かすごい悪いことが起こるかもしれない」 「働かないで、豪勢な生活ができる人がいるなんて、世の中間違っている」 「どんないい所でも、改善すべき問題点があるはず! もっとよりよい生活をするために、問題点を探し出して、改善策を呈示しなくては。より向上することが大切だ!」 と「天国」の暮しを満喫せず、わざわざ心の中に「地獄」を作り出してしまう。 たぶん、「すべてが満たされた天国」というのは、案外、多くの人たちにとってはつまらなかったり、不安になったりする場所なのかもしれない。 欲しいものがなんでも手に入ったら「自分だけすごいものを持ってるぞ」と自慢できないし、「あれが欲しいなあ」とあこがれる気持ちも生まれない。すべての能力や知識を持っていたら向上する必要はない。すると、「こんなに進歩した!嬉しい!」という喜びもないし、誰かが「こんなにがんばって、すごいね」と感心したり、賞賛してくれることもない。 会いたい人とすぐ会えて、一緒にいたい人とずっといられて、心が全部通じ合ってしまったら、「出会いのときめき」も「心が通じ合わないもどかしさ」も「わかりあえる嬉しさ」も「会えない切なさ」も「別れの哀しみ」も「一緒にいられることの嬉しさ」もすべては存在しない。 「すべてが存在する」というのは、実は「すべてがない」のと感覚的には同じなのだ。 「苦しみや辛さや哀しみなんて、人生にあって欲しくない!」と思うかもしれないけれど、そういうものが盛りだくさんなほど、人生は充実して感じられる。 簡単に登れる山の登頂に成功するより、より険しく、難しく、困難な山の頂上に到達したほうが、ずっとずっと満足感がある。 家、車、時計といった「持ち物」や「健康」や「家族」や「友人」は、持っている時はそれが「当たり前」になってしまって、ありがたいとも思わない。でも、火災や震災や病気や死などで失ってみると、持っていたことのありがたさ、存在の大きさをしみじみ感じたりする。 「喪失」「不足」「不満」「不安」というものが存在して初めて、「獲得」「充足」「満足」「安心」という感覚が味わえる。 だから、人はわざと自分の人生の中に、不必要なくらい「困難」という出来事を盛り込んで、感動を求めるのかもしれない。 「神はすべてであり、分離がない。 分離がないと、自分が認識できない。 だから、自分自身をよりよく知りたいと思った神は、「人」という形で分離を生み出した」 のだという。 確かに、全員が白だったら、「自分は「白」だ」ということに気づかない。黒や赤といった違う色を見たときに初めて、「ああ、自分は「黒」や「赤」ではない。「白」なんだ」と気づく。 問題は、誰か強い人が「生きていくには「黒」が一番得だよ」と意見を投げかけた時に起こってくる。自信のない人たちは、「黒にならないといけないのかな」と不安になり、だんだんややこしいことになってくる。 「白」や「赤」の人が無理矢理「黒」になろうとするのは大変だ。せっかく、「白」に生まれたのなら、「黒」になろうとせず、「白」であることを楽しめばいい。でも、もしかすると、その人は「別の色に変わっていく過程」を楽しむために、あえて、最初から「黒」ではなく、「白」に生まれたのかもしれない。 「自分はどんな人生を歩きたいのか」を理解して、自分らしい道を選んでいると、人生は少し楽になるだろう。 「とことん純粋な「白」になりたい」のか、「どんな色にも染まれる「白」になりたい」のか、「白から黒に変わっていく過程を楽しみたい」のか、「たくさんの色を見たいだけ」なのか、「色が変わる可能性、変わらない可能性を分析したい」のか、「何も考えてない」のか…。 この世はディズニーランドのようなものだ。夢のようなお城もあれば、ホラーハウスも、スペースマウンテンもある。既成のガイドブックのおススメコースにとらわれて、大嫌いなジェットコースターの完全制覇なんて、狙わなくてもいい。アトラクションに乗らずに、散歩を楽しむだけ、ミッキーと遊ぶだけでもいいのだ。 ディズニーランドの遊び方は自由。人生の楽しみ方も自由。 人は皆、気づいているか否かに関わらず、それなりに自分好みの人生ドラマを生き、楽しんでいる。 周りの人たちの遊び方(生き方)に干渉しすぎず、なおかつ、 「へー、そんな楽しみ方もあるんだー。じゃあ、こっちのアトラクションも気に入るかもね。試してみたら? 思いっきり楽しんでね!」 と応援していればいいんだなあと、つくづく思う今日この頃。 |
昔のドラマ
2007 / 02 / 04 ( Sun ) 昔のドラマ「星の金貨」を十数年ぶりに見た。
当時、相当夢中になっていただけに、タイトルバックと主題歌が流れた途端、感情が込み上げてきて、涙が止まらなくなった。が…、その割に、細かいストーリーはすっかり忘れていた! 「あー、こんな事件、起こった気もする・・・。えー! こんな衝撃的な話があったっけ?? なんで忘れてたの?!」 自分の記憶のあやふやさにびっくりしてしまった。 それだけじゃない。私の記憶の中で、勝手にストーリーを変えていた部分もあった。 さらに、この十数年間で私自身の考え方が変わったため、ドラマを見ていて感動する部分が違ったり、違う受け止め方をしていることにも気づいた。 例えば、入水自殺を図るシーンを見た時、昔は、 「相手の幸せを願って死のうとするなんて…それだけ愛が深いってことよね」 と感動していたけれど、今は、 「いくら相手の幸せのためでも、命を犠牲にしてしまったら、残されたものは大きな十字架を背負って苦しむことになるよなあ。これって、残される者にとっては、「私を愛してくれないなら、死んでやる!」と、狂言自殺を図られるのと、背負う重荷の大きさは同じかもしれないなあ。 あ、でも、まてよ…。相手の性格によっては「不器用ながらも精一杯愛してくれてありがとう」と、しっかり感謝の気持ちで受け止めるかもしれないよね。そういう人にとっては、「重荷」にはならないかあ…。 ようは、本人の考え方次第かー」 と考えさせられた。 また、私の記憶の中には「すごく嫌味なキャラ」として残っていた登場人物が、今回見直してみて「こんな過去を持っていたから、こうなったのね。この人も一生懸命生きていたのね。きっと、この人を主人公にしたら、別の物語ができるわよね」と思えたり…。 たぶん、自分自身の人生に起こった「ドラマ」も同じなんだろう。 「あの時、こんな事件が起こって、こんな気持ちになった」 と自分では「確かな記憶」だと思っていることも、時間をさかのぼって、もう一度その「当時の出来事」を客観的に見直してみたら、 「え、これってこんな出来事だったかしら? 私は間違って記憶していたの?」 ということもあるだろうし、 「この出来事は、私にとってこういう意味があったけど、別の人にとってみたら、こんな意味があったのね」 と別の視点で見ることができるかもしれない。 「あの時は、こう対処するのがベストだと思っていたけれど、今考えるとこうした方が、ややこしいことにならなかったのかもしれない」 と別の選択肢が見えることもあるだろう。 記憶というのは、自分自身の中で繰り返し繰り返し反芻した出来事なのかもしれない。そして、「自分にとって大切な意味や感情を伴わない出来事」は反芻しない。反芻しない出来事は記憶に残らない。だからこそ、長い長い年月の間に残っていく記憶は、いろいな意味で「自分にとって大切な深い意味や感情」を伴っているものだけなのかもしれない。 そして、はっきりした記憶は失われたとしても、記憶と繋がる「象徴的なもの」を目にした時には、その時に一番強く感じた大切な感情が甦って、 「なんだかわからないけれど、悲しくて涙が止まらない」 「わからないけれど、嬉しくて心が強く揺さぶられる」 などという思いに駆られるのかもしれない。 認知症になってすべての記憶を失った人や記憶喪失の人でも、人生の思い出の場所や思い出の音楽に触れたりすると、感情だけはしっかり甦ってくることがある。それは、大切な思い出が魂のどこかに刻み込まれているからなのかもしれない。 そう考えると、過去に特別な体験をしていないのに、妙に心が揺さぶられることは、もしかすると、記憶として頭には残っていないけれど、魂の中に刻み込まれた大切な大切な前世の思い出と関係があるのかもしれない。 さらにもう一つ、ドラマを見直していて思ったこと。 ストーリー設定としては、「冬のソナタ」と「星の金貨」はある意味似ている。なのに、「冬ソナ」にハマらなかったのは、なぜだろうということ。 どうやら、ストーリー設定だけでなく、根底を流れている感情、登場人物の性格設定、セリフの違いなどの微妙なニュアンスの違いの中に、自分のツボにハマる、ハマらないがあるらしい。そして、ツボにハマった部分というのは、自分の人生と被っているようにも思う。 十数年たった今、ドラマと自分の人生を見比べてみると、メインのストーリーは全く違うにもかかわらず、根底に流れている感情、セリフ、出来事に対する反応のパターンがものの見事に今までの自分の人生と一致している。 「うわ・・・。ある意味、このドラマ、私のその後の10数年を暗示していたわ・・・」 という感じ。 逆に、自分の人生と一致してない部分に関しては、どんなにドラマチックな内容でも全く記憶に残ってなかった。 おそらく、ドラマや映画だけでなく、自分が心惹かれる小説、マンガ、歌などの中にも、自分の人生の「未来予想図」のようなものが入っているに違いない。ならば、とびっきり心惹かれる本、ドラマ、歌などを大切に取っておいて、死ぬ直前にもう一回見直してみたいものだ。きっと、 「なんだー! 私の人生の未来予想図は、こんなところにあったのに! どうして気がつかなかったのだろう!」 と苦笑することが多々あるに違いない。 また、死んだ直後には、自分の生きてきた人生を走馬灯のように振り返ることができると聞く。人によっては「自分の失敗や嫌な出来事を見せられるなんて辛すぎる」と思うかもしれないけれど、私はとーーーっても楽しみだ。 なせって、私の人生は、どんなによくできた映画や小説よりも、ずっとずっと面白くて波乱万丈で自分好みだったと思うから・・・。きっと、「自分の人生ドラマ」を見ながら、 「あー、惜しいな!ここはもうちょっと、こんな風に工夫できたのに! こっちももうちょっとドラマチックにできたかな。 ああ、そうそう! これは超感動だったんだよねー!! うーん、今、客観的に見ても、涙が出てきちゃうなー!」 なんて、めちゃくちゃ楽しめるに違いない。 そのためにも、死ぬまでの間、できるだけ面白おかしく楽しく感動的に過ごさなくちゃね。 本当に、十年一昔…とはよくいったものだ。 たまには、昔のドラマを見てみるのも悪くない♪ |
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