自然に前に進む
2007 / 03 / 22 ( Thu ) 最近、身の回りのことに取り紛れて、あれこれ動いているうちに、はっと気がついたら、今までできなかったことが簡単にできるようになっている自分に気がついた。
例えていうと、「どうしても逆上がりができなかったのに、たまたまハーフマラソンに出る羽目になって頑張っているうちに、マラソンが終わって鉄棒に向き合ってみたら、逆上がりもできるようになっていた」って感じ? 人生なんて、案外そんなものかもしれない。 どうにもできないことがあっても、ちょっと寄り道して他のことをやっている間にできるようになっていたりする。 「難しくて理解できないこと」なども同じ。 「理屈はわかるんだけど、実感として理解できないなあ」 なんて思っていることも、 「理屈がわかっているだけでも十分。そのうち実感や体験として理解できるチャンスがくるさ」 と思っているとそういうチャンスに本当にめぐり合えるようだ。 生きているものはみんな、基本的には「成長したい。よくなりたい」という方向に動くの。だから、頑張らなくたって、放っておけばちゃんと前に進むんだねー。 |
子供の性質
2007 / 03 / 13 ( Tue ) 先日、出産を間近に控えた旧友と久々に会った。
話をいろいろ聞いていて、 「死ぬことと、生まれることって、本当に似ているんだなあ」 とつくづく感じた。 私は今まで、 「一番いい妊娠生活とは、粗食に近い自然な食事を食べて、お腹の子供とたっぷりコミュニケーションをとって、昔ながらの自然に近い出産方法で産むこと」 だと思っていた。 でも、この考え方って、介護でいえば「死ぬならホスピスが一番」という偏った考え方と変わりないんだと痛感。 出産する場所選びや妊娠中の生活は、介護と一緒で、妊婦さんとお腹の子の性格、置かれている状況を考えて選んだ方がいいのだとわかった。 生まれたばかりの赤ちゃんはしゃべらないので、世の中の多くの人は、 「生まれた時、赤ちゃんはみんな同じ性格、性質だ」 と誤解しているようだ。 でも、赤ちゃんは生まれ落ちたときから、はっきりした性格や個性をそれぞれ持っていて、さらに「育てられ方」という影響が加わることで、独自の個性が生まれてくる。それは、子供を観察していればよくわかる。 でも、今回さらに、友人と話をしてみて、 「ああ、子供というのはお腹の中にいるときから、すでに強烈な個性を持っているんだ」 と感じた。 そう考えると、世間で言われているような胎教とか、体にいい食事を無理矢理型どおりに遂行するのは、お腹の子供の性格によってはストレスに違いない。 丁度、世間の親が「よい幼稚園に入るためには、0歳児教育が肝心。よい中学校に入るためには、小学校低学年のうちから塾へ」とやっきになるけれど、子供によっては勉強を強いたりせず、マイペースで日々を過ごさせた方が、親子ともにトラブルが少なく、気持ちよい生活が送れるというのと同じなのだろう。 また、世間一般的には、妊娠中にジャンクフードなんてもってのほか…だろうけど、人によっては「つわり中もジャンクフードならおいしい。お腹の子も喜んでいるみたい」と感じるなら、多分それが正解なのだ。 そう考えると、より実践的な理想的妊娠生活というのは、妊娠中から自分と子どもの好みや性質を分けて考えて、 「私はこれが好きだけれど、この子は何が好きなんだろう? 私はこんな風に生活したいけれど、この子はどういう生活を望んでいるんだろう」 と子供の個性を尊重した上で、親の人生や願いとの妥協点を常に模索していくことかもしれない。 でもまあ、お腹の中にいるときから、 「最低限の生活を保証してもらえば、あとは自力でやります」 って自立した性格の子なら、どんな親でも大丈夫だろうし、 「あえて、自分と性格の違う親のところに生まれて、苦労をすることでいろいろな体験をしてみたい」 と思って生まれてくる子なら、お腹の中にいるときから振り回されるのも本望かもしれない。 結局、子供自身が、それなりに親を選んで生まれてくるなら、「親がどういう妊娠生活を送って、どうやって育ててくれるか」ということだって、ある程度予測して生まれてくるはず(生まれた後は、自分が選んだということは忘れてしまうだろうけど・・・)。 そう考えると、軒並み出ている出産雑誌よろしく「こういう妊娠生活をして、こういう子育てをした方がいいよ」と十羽一絡げにして、一般論を述べても意味がない。 もし、「どういう妊娠生活を送ったらいいのかしら?」と聞かれたならば、介護のアドバイス同様、じっくり話を聞いて、妊婦さんとお腹の子供の性格を捉えたうえで、 「こういう方法あたりがいいように思うけど、あなた自身はどう思う? お腹の子はどう感じているように思う?」 と聞いた上で、それぞれの道探しをサポートするのがベストだろうなあと思った。 話は変わって…。 ちょっと前に、高齢者住宅へ仕事に行った時、ある認知症の方について、スタッフから相談を受けた。 夜になると不安が強くて、コールが頻回で「うつ傾向」と診断されているらしい。関わってみると、確かに意識がはっきりしているときは、「この先どうなるのだろう。どんどん悪くなるんじゃないか」と不安が頭にもたげてくるようだった。 でも、認知症の症状が出ていて「自分が置かれている状況や、不安の存在を忘れているとき」には、その場にいるスタッフや他のお年寄りの中で、一番幸せな感覚を感じていることもわかった。 つまり、普段天国のようなものすごい幸せな感覚の中にいるだけに、ほんのちょっとでも不安な感覚が戻ってくると、普通の人以上に不安を強く感じてしまうようなのだ。 本当に、幸せと不幸せという感覚は面白い関係にあるものだ。 スタッフには、 「悩みがあるからといって、その人の人生が自分より不幸で、かわいそうかどうかはわかりませんよ。「認知症にかかって、すべてを忘れて、今この瞬間の最高に幸せな感覚の中にずっとひたっていられる彼女」は、私たちよりずっと、本当の幸せを味わっているかもしれません。 「夜不安にならないように。夜、よく眠れるように」という理由で、昼間、至福の中でまどろんでいる彼女を叩き起こすのは、かえって不安を掻き立てることになって、余計なお世話かもしれませんよ」 と話しながら、私自身もハッとした。 「ひまわり」に相談に来る人も、確かにその時には、大変な問題を抱えているかもしれないけれど、「大変むがなくなったら、私よりたくさんの幸せを味わっているかもしれない。 誰しも人は、その人の得意分野では、他人が計り知れないような幸せを味わっているに違いない。 私は「大変を乗り越える方法」「大変の中で幸せを探し出す方法」は、人より何倍も学んできたけれど、「幸せを深める方法」はあまり学んでこなかったような気がする。 謙虚な目で、いろいろな人の生き様をもう一回見直して、「幸せの深め方」を学んでみたいものだ。 …ということで、手始めに「幸福」ならぬ「口福」の追求を考えている。料理のレパートリーを少し増やしてみよう、もう少し手間暇かけて料理を作ってみよう…と決心。 そんなこんなで、先日、辰巳芳子さんの番組を見ていて、結構考えさせられた。 「料理も、生きることも、「時が来るのをじっと待つこと」が必要な時がある」とのこと。 一番おいしい素材は旬の時期にしか手に入らないものだし、干物を作るにも、煮物を作るにもある一定の時間をかけなければならない。 その一定の時間は、「ひたすら待つ」しかできないのだ。 私は正直言って、「ただ待つ」のは苦手。「目的に向かって努力」している方が楽なタイプ。でも、目標に向かってまっしぐらに走っていると、目に入らないことってたくさんある。じっと立ち止まることで、反対に、周囲が「ゆっくりではあるけれど力強く躍動していること」に気がつくことが多々ある。 「時」という調味料は、料理も人生もおいしい味付けをしてくれるんだなあと思った。 話はさらに変わる。 最近、つくづく、 「辛い過去を手放すのは難しいけれど、それ以上に、幸せな過去、幸せな体験、幸せを感じるものを手放す方が何倍も難しい」 と感じる。 まあ、普通に生活していれば、目の前の「幸せ」をわざわざ手放す必要などないけれど、時には、手放す勇気を持たないとかえって苦しい時もある。たとえ、よいものに対してであっても、「執着する」と苦しみに変わるからだ。 また、人や物や環境は「幸せ」を引き出す手助けはしてくれるけれど、「幸せ」という感覚そのものは、自分の心の中にあるもの。一度感じた幸せは、必ず自分だけの力で生み出すことができる。 …とは理屈ではわかっていても、なかなか、 「はたして、あれだけの幸せを自分だけの力で感じることができるだろうか」 と、不安になるのが人間だよなー、とも思う。 でも、そう思ってしまうのは、「過去の幸せ」に執着して、「あの時と比べて、目の前の幸せは小さい」と比較しているからだよねー。 「幸せすぎる過去を持っていること」や「高い理想を持っていること」は生きるための大きな支えになることもあるけれど、かえって、不幸なこともあるかも・・・。 幸せを大きい、小さいと比較することに夢中にならず、いつも「今目の前に起こっている瞬間」だけに集中できるようになりたいものだ。 |
高度文明
2007 / 03 / 05 ( Mon ) 病院で、高カロリー流動食のゼリー2種類を試食した。一つは「安物のプリン」といった味。もう一種類は思いっきり人工香料臭くて、まずいのなんの…。開発した人には申し訳ないけど、食欲のない時に、こんなまずくて、人工的なものを出されたら、ますます食欲減退しそう。それに、栄養バランスは良くても体に超悪そう…。
こんなまずいものを、 「栄養が取れないと、死んでしまうから」 という理由で、嫌がる人の口に無理矢理ねじ込む看病が病院や老人施設で、何の疑問もなく、当たり前のことのようにまかり通っている現実が、私には信じられない…。 「人の嫌がることは、しないように」 と子供のころ、みんな教わってきたはずなのに、「長生きさせる」という正当な理由(?)がつくと状況は変わってくるのねぇ…。 私だったら、こんなまずいものを食べてまで長生きしたくない。食事がおいしく食べられなくなったら、「ああ寿命がきたのね」と受け入れて潔く死んでいきたい。 母が亡くなる時に、あんなまずいものを無理やり食べさせなかっただけでも、親孝行だったなあと思う。母は食事があまりとれなくなってからは、ガーゼに含んだ水をチューチュー吸って、「お水がおいしい♪」と言っていた。 長生きできなくても、自分が過ごしたいように過ごして、最後まで「おいしい」という感覚を持ち続けながら死んでいけることは、今の時代にはなかなかできない幸せな死に方(生き方)なのかもしれない。 治療法が進化して、長生きが当たり前になってくると、「自然に寿命をまっとうすること」が何かとてもいけない選択のように思われてしまう。 それに、新時代の医者は、治療はできても、自然に看取ることができない。 家作りなども同じらしい。 規格にあった建築材料で、プラモデルのような組み立て建築が主流になったため、昔ながらの木材をふんだんに使う家を建てられる大工さんは減っているんだとか。 なので、昔ながらの家を建てようとすると、コストもかかる上、建築不備も出やすいらしい。 文明が発展して、どんどん便利になっていくことは一見素晴しいことだけれど、失っていくものもたくさんある。 確かに、今時の家は、隙間風も入ってこないし、防犯もしっかりしていて、快適かもしれないけれど、私はやはり、昔のボロ家が懐かしい。きっと、死んだ後も、魂の記憶の中に「私はこんな家に住んでいた」と強い印象で残るのは、間違いなく「子供の時に住んでいた古い木の家」だろう。 目覚ましい発展と変化を遂げる面白い時代に生まれてきたとは思うけれど、戻れるものなら、生活は少々不便でも、時間がゆっくり流れていた昭和30-40年代の世界に戻りたい。 でも、これだけ科学が進歩して、便利なものがたくさん生み出されてしまうと、逆に、そうした便利さを捨ててまで、昔に戻ることは難しいように思う。 もしかして、あまりにも文明が発達しすぎて、行き着くとこまで行きついてしまうと、その先は「リセット」しかないのかなあ・・・と思ったりもする。 昔、「プリンセスメーカー」というゲームにはまったことがある。 女の子にいろいろな経験をさせて育てていくと、その経験値によって、いろいろな性格、職種の女性に育つ…というゲームだ。 素敵な王女様に育っても、乞食に育っても、一通り行き着くとこまで行きついてしまうと、 「あの時、別の選択をしたら、もっと違う結果に辿り着いたかも・・・」 と、別の人生を歩かせたくなってしまう。そうなると、リセットするしかない。 実際に生きている人間も、マラソン選手が年老いてから、画家の人生に完全に転向するのはものすごく難しい。 文明も、ある一つの方向に向かっていくと、急に別の方向に向かうのは難しいのかもしれない。 だから、人も文明も「新しいチャレンジ」が必要になってくると、死が訪れたり、天災が起こって滅びたりするのかもしれない。 そう考えると、「死」も「天災」も神の意志で、必要があって流れの中でおこるものなのかなあと思えて、そんなに怖いものでもないように感じたりする。 |
心機一転、新機一転
2007 / 03 / 02 ( Fri ) 先週末、クラッシュしたパソコンはCD-Rの読み取りも不能になってしまったため、初期化することもできず。結局、買い替えざるをえないことになった。まあ、でも、ウィンドウズ98仕様で、CDの書き込みもできない機種だったし、キーボードも壊れかかってたから、パソコンとしての天寿は全うしたかもしれない。そして、家族には、
「なんだかんだいって、一番最初にビスタを買うやつ…」 と笑われながら、本当にビスタを買ってしまった! しかし、パソコンクラッシュもこう何度もになると、すっかり腹が据わってしまって、 「ああ、またやっちゃったか。まあでも、今回はメールアドレスのバックアップがとれたし、普段使っている文書のバックアップも取ってあったから、まだましって感じ? それに、壊れないと物が捨てられない性格だから、「そろそろ買い換えていいよ」ってことかな。そして、パソコンに続いて、生活も大きく変化…って感じかしら? 」 くらいにしか思わないところが、我ながら怖い。 それに今回は、絶対壊れる自信があったし?! なにしろ、30分くらいの間に、自分のエネルギーの振り幅が最大のマイナスから、最大のプラスまで一気に動くことが起こったから・・・(ちなみに、仕事なら、どんなにめちゃくちゃハードな状況でも、こんなことはあり得ないわねー。自分が学習途上の問題だからこそ、余裕がないから、こうなるのよね)。 これだけ大きなエネルギー変動があると、パソコンみたいなデリケートな電化製品はひとたまりもない! ましてや、もともと半分壊れかかってたパソコンだったし…。 …それにしても、久々に電気屋に行って、最近のパソコン事情を聞いて、さらに驚いた! 今時は、電話回線でネットに接続する機種がほとんどない!(ということは、我が家は電話回線) でも、もっと驚いたのは、我が家ではADSLを使うよりも、電話回線の方がずっと安く上がっていること! おそらく、「私の性格」と「現在の生活スタンスの変遷」を考えたら、今後、ネットをどんどん利用することはあり得なさそう…。それに、うちの地域は電波障害の関係で、ケーブルテレビが入っているから、いざとなったらそれが利用できるし…。電気屋さんに言われるがままに、安易にADSLや光ファイバーにしなくて良かった! そして、新しいパソコンを手にしたのだけれど、ウィルス対策ソフトがうまく入らず、購入早々リカバリーする羽目になったり、使い勝手が大幅に違って四苦八苦したり・・・と、毎日、日長一日パソコンとの悪戦苦闘が続いている。 でも、この大騒ぎのおかげで、「今、目の前に起こっていること」に集中せざるを得なくて、未来や過去のことをあれこれ考えあぐねる暇がなくなったのは、ラッキーだったかも。「今」に集中して過ごすには、「トラブルもまた良し」って感じ? でもでも、どうせなら、もうちょっと楽しいことに集中したいもんだわ! ところで、ここ数年のパソコン事情の変化だけでも、これだけ追いつくのが大変なんだから、この先何年かしたら、もっと大変かも…。 便利になるのもいいけど、スローライフな時代が懐かしく感じる今日この頃…。 |
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