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日々のつぶやき
2007 / 05 / 31 ( Thu )
日々の生活が平穏だと、眠っている間に見る夢は、日常生活や個人的な潜在意識からどんどんかけ離れてくるらしい。
最近の私の見る夢は、現実と全くかけ離れた一大スペクタクルでとてつもない内容、しかも半分以上は私自身が出てこない。でも、なかなかどうしてこれが面白い!
 スペースシャトルのような乗り物に乗って、近未来の世界をあちこち大冒険したり、フェニックスやペガサスが出てきたり…。しかも、触感から匂いまで、ものすごくリアル! なので、毎晩パラレルワールドやファンタジーランドで遊んでいるようで、楽しくて楽しくて…。私の最近の最高の娯楽という感じ。

 話は現実に戻って…。

 農林水産大臣のニュースを聞いて、「どんなにすごい地位について、豪勢な暮らしができても、自死を選ぶまで心が追いつめられる生活は、本当の意味で「豊か」「幸せ」とはいえないよなあ」とつくづく思った。
 
 大臣は田舎で大変な貧乏暮らしを目の当たりにして、一念奮起してがんばってきたと聞く。でも、TV番組のビンボー自慢じゃないけれど、生き方によっては、貧乏だって幸せに暮らせる!
 …とキッパリ言い切れるだけの人生を生きられたことに、感謝したい。

 大学時代は「一カ月一万円生活」を足かけ6年やり遂げたし、ホスピスで出会ったホームレスのおじさんたちからは、いろいろな生き抜く術を教わった。
だから、家族が職場関係で追い詰められていたら、たとえそれが一家の大黒柱であったとしても、キッパリこう言える自信がある!
「やめちゃえ、やめちゃえ!
がんばり屋のあなたがそこまで思うのは、相当大変なんだと思うよ! 無理して、体を壊してまで、がんばらなきゃいけないことなんてないよ! その「がんばり」を他の方向で使えば、きっと道は開けるよ!
人生一回しかないんだからさあ、嫌々苦しんで生きたって仕方ないよ!
自分のやりたいこと、楽しいと思うことをやって生きていこうよ。
生活のやりくりは大丈夫! 贅沢しなければ、家族全員、それなりに暮らしていけるから! あなたが幸せな方が、私たちも幸せなんだよ! 」

実際、妹が都庁を辞めるかどうかで悩んでいた時、「やめちゃえ、やめちゃえ」と煽ったのは、何を隠そう私だったし…。
 
 それに、商売柄、「普通に働いて、いい給料を稼ぐのが立派な社会人」だとは思ってない。「働く」ことについての私の自論は、
「自分が生きていくのに必要な分だけ稼げれば、立派に一人前。どんな仕事をしてもいい。どんな仕事だって、必ず誰かの役に立ってるから」

ちなみに、私自身も新しい仕事にチャレンジするかどうか迷った時には、
「この仕事で失敗して職を失っても大丈夫! マックかどこかでバイトして1万円稼げれば生きていけるから。あとで後悔のないよう、やれるだけのことをやってみよう」
と、自分に言ってきた。おかげでここまでこれたようなものだ。
だから、貧乏も考えようによっては、力になるんだけどね。
 
 ところで、個人的には農林水産大臣の自死より、坂井泉水さんの死の方がショックだった。なにしろ、一番辛かった時期を乗り越えるのに、ZARDと岡村孝子の曲には本当に支えられたから…。なんだか、私自身の一つの時代の流れも終結したような気分になった。
坂井さん、いい歌をいっぱい作ってくれてありがとう! 向こうで幸せに暮らしてね。
10 : 19 : 23 | ひとりごと | page top↑
日々の話題、あれこれ
2007 / 05 / 25 ( Fri )
 いろいろな人の人生を見ていると、どうやら「とても綿密な計画を立てて生まれてきた人」「アバウトな計画でサプライズを楽しむ人生を選んだ人」「短い人生にいろいろ詰め込んだ人生の人」「風の向くまま気の向くままのんびりの人生を選んだ人」などなど、いろんなパターンがあるらしい。
 また、その「パターン」は、知らず知らずのうちに日々の生活の中ににじみ出ているようだ。
…と、他人のパターンはよくわかるのだが、いかんせん、自分自身のパターンとなると、客観的になれない分、はっきりわかりにくい。

 でも、最近ようやく、
 「私はものすごく綿密に人生計画を立てて生まれてきたのかも・・・」
 と思う。

 なぜかというと、昔の日記、本などを読み返してみて、
「なんだあ。ずっと前から、同じことを書いてるじゃん! 結局、私の人生っていつも同じ方向を向いていて、同じテーマをどんどん掘り下げて深めていただけなんだー! 」
 と痛感したから。
ここまで人生を歩いてきて、起こった出来事を振り返って整理してみると、つくづく「その時考えていることの延長線上に、未来は創造されるんだなあ」と思う。

 たとえば、自分が生きている「現実」が混乱していた時は、自分の心の中(特に潜在意識)に必ず混乱している部分があった(渦中にいるときは、そんなことは認めたくなかったけどね)。 自分自身が自分の「無意識」に対して抵抗したり反発したりしていると、「現実」でも反発、抵抗、争いという問題が発生するんだなあと、今なら思える。
 そして、思考パターンがどう「現実」に現れてくるかが理解できると、ある程度の未来予測はできる。

 ところで、話は変わる。
最近また、「愛情」と「相手との距離」について考えさせられることが多くなった。

以前、何かの本にも書いたけれど、医療介護の現場では、
 母 「遠くに住んでいる娘が、近くにいたら、もっと看病してもらえるのに」
 娘 「近くに住んでいたら、母の面倒をもっと見てあげられるのに」
 と「幸せな闘病生活」を想像しているときの方が、実際にどっぷり看病生活に浸るより幸せ…ということが往々にしてよくある。

それに、家族といっても、いつも仲良しこよしでいられる関係ばかりではない。
「一緒に住んで直接物理的には支え合っているけれど、毎日いがみ合いののしり合って、心ばかりか言葉も通じない」という関係より、「滅多に会えず、直接交流は全くないけれど、毎日最高の愛情を込めて、幸せを祈っている」という方が、何倍も幸せかもしれない。

 私事でいえば、うちの弟と父は一緒に住んでいた頃、お世辞にも「仲良し」と言える関係ではなかった。でも、離れて住むようになってからは、弟の頭の中には常に「親孝行」という文字がよぎるらしく、実際に顔を見せるのは盆暮れくらいなのだが、折に触れて、彼なりに細やかな気配りをしているのが伝わってくる(鈍感な父がどのくらい理解しているかは、不明だが・・・)。

 そんな弟の優しい対応を見る度に私は、
「私って、父に優しくないよなあ」
 と反省したり、
「父と私は価値観も生活観も180度違うんだから仕方ないよね。でも、昔に比べたら、私も寛容になったから、それだけでもまあいいか。私だって、距離が離れていたら、弟と同じくらい優しくできるだろうし」
 と、自分を慰めてみたりもする。

 でも時には、
 「もっと優しい態度で接することができる自分になるためには、もう少し父と距離を取った方がいいのかなあ」
 と思うこともある。

 それでも、私が生活スタンスを変えないのは、たぶん、
「苦手な価値観、生活観を持った人と一緒に暮らせるくらい、「苦手」を克服したい」
 という気持ちがあるからなんだろうなと思う。

 私の目標は、愛新覚羅夫妻のような「離れていて全く交流のない時でも相手を信じて相手の幸せを祈ることができ、一緒にいるときには、離れているときと同じくらいお互いのことを思いやっていられる家族関係」を作れる自分になること。

でも実際には、ずっと一緒にいたら、離れているときほど「幸せに過ごしているだろうか」と一日中祈ってはいられないだろうし、どんなに気の合う人、どんなに愛情を感じる人と暮らしても、「自分と合わないな」と思う部分は出てくるだろう。
そうした時に、「合わない部分」「苦手な部分」とうまく折り合って、楽しいことだけを見られる「ステキな私」でいるためには、親という切り離しにくい関係を通して、自分自身を鍛えられたことはラッキーなことだったなあと、つくづく思う。
苦手な人を最愛と思えるくらい大切にできたら、どんな人間関係も困らないもんね。

それと、「ステキな私」を目指すのは、「立派な人になるため」とか「世間から認められるため」とかじゃないんだよねーと、最近しみじみ思う。

「ステキな私」でいられたら、なにより私自身がものすごく嬉しいし、楽しい!
「ああ、私、こんなこともできるようになったんだ! すっごーい! すてきステキ!」
という気分になれるなら、相手に腹が立っても10回に1回くらいは我慢できるってだけのこと。

 また、母乳で育つ赤ちゃんにとって、お母さんが自分を最高に大切にして、最高においしいおっぱいを作ってくれたら、それだけで最高の育児であるように、一緒にいる人たちが「私が発した一番気持ちのいいエネルギー」を味わってもらえるなら、こんなに嬉しいことはない。

 私自身と周りの人たちがいつもいいエネルギーを味わって幸せでいられるような「ステキな私」をいっぱい育てたいなあと思う今日この頃。

 話はまた転じて…。

 「はしかが大流行」というニュースを聞いて、「一体、何万人の人が倒れたのかしら??」と思ったら、「OO大学で3人発症」と聞いて、さらにびっくり!
 「はしかなんて、私が子供のころは、流行りだしたら、同じ学級で何人も倒れていたし、近所全員罹ってたのに・・・。 それが、3人かかっただけで大流行なんて?! 」

 そりゃあ、ワクチンが広まって、はしかに罹る人が少なくなって、医者ですら「はしかの患者を見たことがありません」って人が増えてる時代だとは思っていたけど…。
 なんだか本当に過保護な時代になってきたなあと、つくづく思う。
 ほんの小さな病気も罹るのが嫌だからと、ワクチンを打って避けようとする。病気になっても、早く治そうと強力な薬を開発する。
 そのせいで、人間本来が持っているウィルスへの抵抗力がどんどん弱くなって、自力で病気に立ち向かえなくなる。
その一方で、「病気を避けるために」と開発されたワクチンや薬で、取り返しのつかない副作用に苦しんだりする人が出る。

苦しみを避けようとしたことが、かえってややこしいひずみを生みだしてしまうことに、人間って何百年の歴史を経験しても気がつかないものなんだなあと、つくづく思う。

 もしかすると何十年か後の人たちは、「はしかにかかると恐ろしいことになる!」と思い込むようになって、本当にはしかに自力で立ち向かえないほどか弱い人間になるのかもしれないなあ…なんて考える人は、今の時代、あまりいないのかもね。

 話はまたまた転じて…。

 クリニックの近くで、殺人事件が起こり、犯人が目と鼻の先の某病院で発見された。休診日だったから、全く影響を受けなかったけれど、近辺は非常線が張られて、機動隊やら警察犬やら報道局の人々やらがたくさん出て、大騒ぎだったらしい。
 事件の内容をよくよく聞けば、ご近所トラブルが原因らしいから、周りが煽りたてたりしなければ、さらに危険が重なることはなさそうな感じだった。
 でも、あれだけの大騒ぎになったら、犯人は追いつめられるだろうし、追いつめられると誰でも何をするかわからない状態になることだってある。
さらに、世間が大騒ぎすればするほど、本当はさほど大変な状況でなくても、大騒ぎを見た人たちは「これからものすごく大変なことが起こるぞ!」という気分になったりする。
 これも一種のマインドコントロールだよなーと思う。
 
 世の中、知らず知らずのうちにいろいろなマインドコントロールや集団心理が働いているから、「社会や周りに煽られてないか」と自分に問いかけることは大事かもね。
23 : 44 : 05 | ひとりごと | page top↑
チャンスの女神の采配
2007 / 05 / 16 ( Wed )
宝塚を受験する少女達のドキュメント番組を見た。
印象深かったのは、「必ずしも、すごいオーラを持っている子が受かるわけじゃないんだ」ということ。まあ、VTRではオーラというか「気」のようなものが半減して感じられるから、本人達を目の前にしたら、また違って感じるのかもしれないけれど・・・。

でも、落ちた子達が、
「これで逆に、私にはたくさんの可能性が広がったのだと思います。宝塚だけにこだわらず、いろいろな方向から舞台に立つ可能性にチャレンジしてみようと思います!」
と次の新しい目標に向かっていくたくましい姿を見て、
「ああ、そうか。本当にブロードウェーとか、世界の檜舞台に立つような子は、宝塚にとどまらず、大きく羽ばたいていくために、大きな挫折を一度味わい、それをバネにして本当の目標に達する…という人生を歩く子もいるんだろうな。
そういう子は、宝塚に合格してしまったら、世界への可能性が閉ざされてしまう。だから、たまたま体調が悪くて本領が発揮できなかったり、試験管との相性が悪かったり、宝塚のカラーに合わないように見えたりして落ちるんだろうな」
と納得した。

私も昔、演劇をやりたくてオーディションのようなものを受けたことが何度かある。落ちると、自分自身のすべてが否定されたように感じて、しばらく立ち上がれなくなったものだ。
でも、今考えると、オーディションは「使う側にとって、一番使いやすい人物。一番イメージに合った人物」を選ぶのであって、必ずしも才能のあるなしを見るものではない。それに、コネや裏工作なども当たり前にまかり通っている。
大人になってそうしたことを知ってからは、「なーんだ。そんなに落ち込まなくてもよかったのに。悩んで損した!」と客観的に見られるようになった。

また、よくよく考えてみると、私は「ここぞ!」と思うときには、ものすごくあきらめが悪くて、死に物狂いで頑張る性格だ。なのに、あの時、がむしゃらに「何度落ちても頑張る!!」と思えなかったのは、「死ぬ気で頑張りたいほど演劇に執着していなかったから」と今なら断言できる。それに、もしかすると「医者になって講演という舞台に立つ人生を歩こう!」と潜在意識が方向指示器を出していたのかもしれない。

人生というのは面白いものだ。
本当に「ここぞ!」と思うときには、知らないうちに頑張っていたりする反面、「こっちの方向じゃないな」と潜在意識でわかっているときには、「よくわからないけど、なんとなく頑張れない。私って根性なし?」と思うこともあるのだろう。

ならば、
「私はあの人みたいに頑張れない。なぜだろう?」
と思ったときには、「もっと頑張らなきゃ!」と自分を責めて鞭打つ前に、「私はあの人たちとは違う道を歩くのかも?」と自分に問い掛けてみるのも一つかもね。
22 : 40 : 25 | ひとりごと | page top↑
原点はなんだっけ?
2007 / 05 / 14 ( Mon )
 先日、学生時代の旧友が関わっている「憲法劇」を見に行った。
その時々のタイムリーな時事問題とか、政治問題をコミカルなミュージカルに仕立てて、世の中に問題提起をしていく…という趣旨で、毎年、5月の初め頃に横浜で上演されているものだ。

 何年かぶりに見て「例年通り、面白い切り口だなあ」と思う反面、
「立場、視点が違うと、同じ物事もこんな風に捉え方が変わるものか」
 とあらためて実感した。

 たとえば、「憲法劇」の中で、
「働きたくても仕事がなく、日雇いでいいように使われて、ネットカフェ暮らしを余儀なくされている人々。こんな劣悪な社会環境でいいのか? 」
 と問いかけるシーンがあった。

 私がネットカフェの存在を初めて知った時に思ったのは、
「家族関係がうまく行ってない子供や夫のDVから抜け出したい女性など、その気になったらネットカフェに抜け出すことができるんだ。いい時代になったなあ」
 ということだった。

 でも、ネットカフェで実際に日々暮らしている人たちにしてみれば、確かに、「劣悪な社会、労働条件だからこうなった」ということなんだろう。

 でも、さらに突っ込んでこうも考えてみた。
 「ネットカフェに払うお金があるなら、そのお金を仲間と寄せ集めてシェアして、狭い部屋を借りる方法もあるよね。でも、きっと、そうした密接な繋がりを持つよりも、ハンドルネームという仮面を一枚かぶった人間づきあいの方が楽なのかも…。
 本人は気づいてないかもしれないけれど、無意識に「こっちの生活より、こっちの方がまだまし」と選んだ結果がネット暮らしなのかもしれないなー」

 人って、その時に過ごしている環境に慣れてしまうと、「なぜ、そういう過ごし方を始めたのか」という原点を忘れてしまうような気がする。

 本当に今の暮らしが嫌だったら、必死で抜け出す方法を考えれば、必ず抜け道はあるものだ。でも、抜け道を考えるのが大変だったり、抜け道を実行する勇気を振り絞るのが大変だったり、案外新しい生活をするよりは今の暮らしの方が楽だと潜在意識で思っているから生活が変わらない…ということは少なくないような気がする。

 また、「憲法劇」の中では、子供たちが「学校へ行かないと、いい仕事に就けない。才能ないと、やりたいこともできない」と叫ぶシーンもあった。でも、本当にそう?

 助産師の仕事がしたいのに、学校に入れるだけの学力がないなら、海外の「資格云々」と言われない場所で、助産師の勉強を実地で学んで働くことだってできる。
 有名な音楽学校を出て、立派な師の下について、名をはせた音楽家になれなくても、路上パフォーマンスで買い物かごの一つも前に置いて、
「ニンジン、ピーマン、おにぎり、お布施はなんでもOK!」
と、その日の食べ物を稼げれば十分プロだ。

 でも、多くの人は「そこまでやる覚悟」を持つよりは、今の生活で妥協点を探す方が楽なのかもしれない。
 そして、そうさせているのは確かに、今の社会、今の世の中なのだろう。
 
 でも、「社会が悪い」と誰かのせいにしたまま、本当にやりたいことができずに一生が終わってしまって、死ぬ時に後悔しないのかなあ・・・とも思う。
 死んでから、「あそこで別の道を選ぶ勇気を持てばよかった」と後悔するくらいなら、死んだつもりで、全く別の人生を歩くことにチャレンジしてもいいかもしれない。
資格とか、優秀とか、学歴とか、地位とか、高収入とか、セレブな暮らしとか…社会が私たちに植え付けてきた価値観を一度白紙に戻して、「本当にやりたいことは何か」という自分の中の原点から始められたら、人生ずいぶん変わってくるかも・・・。
 
 ちなみに、「働いて食べて生きていく」ということは、本来「自分の得意なことで誰かをサポートする代わりに、誰かの得意なことで自分も助けてもらう」ということが原点だったはず。
 
 原点を見失ってしまうと、中心からずれてしまいやすい。でも、そういうことは世の中にいっぱいあるような気もする。

 たとえば、「すべての人が平等に教育を受けられて、幸せに過ごせるように」と義務教育は始まったはず。その「幸せになるための義務教育」が子供の人生と将来を鎖に縛り付けてしまうことがある。
 「母子ともに健やかに過ごせるように」と始まった出産への医療介入。いつの間にか出産は病気扱いされて、普通に出産できる人まで帝王切開されたり、必要もない処置が行われるようになって、女性の体と心が傷つけられることが増えたり…。
 風邪にかかるのは、体が休みを必要としているからなのに、「無理矢理早く直して、学校や仕事に行かせよう」と強力な薬を開発したお陰で、おかしな副作用で苦しんだり・・・。

 普通の生活の中でも、原点を見失いがちなことはたくさんある。

 「健康になろう」と思って、始めた散歩がいつの間にか、「一日に2万歩は歩かねばならない」という義務になり、かえって健康を損ねてしまうとか。
 「ストレス解消。気分転換に」と始めた趣味に没頭するあまり、「もっと立派にならなければ」と上達が目標になってしまうと辛くなってしまう。
 好きな人ができて「もっと理解したい。もっと愛したい。もっと一緒にいたい」と思って一緒に暮らし始めたのに、「ここも、あそこも気に入らない。でも、いまさら別れるのはもっと面倒」と惰性で一緒に暮らすのはとても寂しいこと・・・。

 生活をしていて、
「あれ? おかしいな?」
 と思ったら、
「原点はなんだっけ?」
と自分に問いかけ直すことは重要かもね。
 
23 : 13 : 29 | ひとりごと | page top↑
すべてを手放す
2007 / 05 / 07 ( Mon )
 お能の素人会が終わった。
 今回の私の課題は、「すべてを手放して「無、空」になり、そこに自然と湧き出てきたものだけで舞う」こと。
 これがなかなかどうして難しかった!

 「重心がずれないように。きれいな形になるように。ここはこんな風に表現したい」
と欲が次から次へと出てきて、捨て切ることができない。
 結局、「たかが舞台」なのだけど、真剣に取り組むと「人生で培ってきたものすべてを手放せる勇気」が求められるということに気がついた。
 
でも、「今までの人生のすべてを手放す」のは半端でなく大変だ。
普通の人の場合、まず「辛い過去」「トラウマ」などが「手放したくても手放せないこと」の筆頭に挙がるだろう。辛くてショッキングな体験ほど、「手放せば自分自身もラク」とわかっていても、十分消化しないことには手放せないものだ。
ただ、幸いなことに私の場合、「苦しい過去」は商売柄、ほとんど清算済みだから問題はなかった。

難しかったのは、むしろ「大切なもの」への執着心を手放すことだった。
家族、友人、仕事、大切にしてきたもの、幸せな思い出、自分が培ってきたもの、誇りに思うもの、今日の生活の糧、健康な体…。
そうした「大切なもの」を手放すことの方が「嫌なもの、苦しいもの」を手放すより、実ははるかに難しい。

ある意味、大病を患うとか、記憶喪失になるとか、火事や地震などで持ち物一切を失うとか、リストラされるとか、死んでしまうとかで、強制的に手放さざるを得なくなる方が手放すのは楽だ。
 自分の決意一つだけで、一切合財の大切なものを手放すのは相当の勇気がいる。

 昔、「清く正しく美しく、一つも間違いを犯さないで生き抜こう」と真剣に思って生きていた時、「矛盾に満ちたこの世の中で生きるためには、この生き方では生きられない」と気がついたことがある。
「今までの生き方を最後まで貫くなら「死ぬ」しかない。生きていくなら、今までの生き方すべてを否定して、泥にまみれる覚悟をするしかない」
 そうわかった時、私にとって「生きる」選択をすることは、それまで生きてきた自分のすべてを否定することのように感じられた。だから、生きながら殺されるような絶望感に打ちのめされたものだ。
 ある意味、今回も似たようなところがあった。でも、手放すものの量は前回よりはるかに大きかった。そのため、数年がかりの作業になった。ただ、前回の経験があるので、「今までの生き方を手放すことは、自分を否定することではない」と思えたのは、楽だったかもしれない。
 
 でも、こうして今振り返ってみると、自分の生き方を拘束しているものは、良いものであれ、悪いものであれ「過去に自分が積み上げてきた結果」であり、「未来で自分が何を積み上げるかという期待」だったのだなあと思う。
 だから、「過去」や「未来」に関する執着を、良いものも悪いものもすべて完全に捨て去って、「私は誰なのか」ということすら忘れるくらい「今に存在するだけ」になると、本当に自由で身軽になる。

 だからこそ、生まれ変わる時には、わざと記憶をすべて無くすのだろう。
 記憶がなければ、過去にとらわれることなく、新しい人生を掴み取ることができるから。

 それに、たかだか何十年の人生の中で、培ったものだけでも捨てるのが難しいのだから、もし、三千年も大切にしてきたものをある日突然失ってしまったら、気が狂うほどの絶望感にとらわれるに違いない。
 そう考えると、何十年分くらいで、人生を区切って整理できるのはいいシステムだ。数年ごとに引っ越しをするようなものかもしれない。

 そんなこんなで、舞台に立つことを通じて、人生すべてを手放せるくらいの覚悟ができたのは、本当にいい機会だった。

ところで、今回、いろいろな人の舞台を見ていて、つくづく「存在そのものの力」というのは偉大だなあと思った。舞台に現れた人が変わるだけで、その人が何もしなくてもその場の空気がはっきり変わるのだ。
たとえば、全く同じ部屋でも、薔薇を飾るのと、かすみ草を飾るのと、観葉植物を飾るのでは全く部屋の雰囲気が変わるのと似ているかもしれない。
結局、無になっても、私自身の「存在」が醸し出している空気はなくならないし、何も考えなくても、舞の手順は出てくるわけだし、場面に応じた情感も勝手に湧いてくる。それこそが「存在の本質」なんだなあと、しみじみ思う。

おまけ。
後日、舞台のVTRを見ていてびっくり!
なんと、プロの先生方の謡にまぎれて、天使の歌声(?!)のようなものがかすかに入っていた!! 男性の低い声とは全く違う「音程も正確で、ソプラノで澄んだ聖歌隊の女性のような歌声!」こんなことってあるのね…。もしかして、「倍音」ってやつ? でも、せっかくだから、天使の謡だと思っておこう! その方が、嬉しさ倍増だもんね。
天使の謡を聞いた人なんて、そうそういないよね。なんてラッキー!
23 : 44 : 11 | ひとりごと | page top↑
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