無意識の発見
2007 / 06 / 26 ( Tue ) 新しいことを始めると、自分が無意識にやっているパターンを発見できて面白い。
たとえば、何か新しいことに必死で取り組んでいる時の私には、「納得いくまであれこれ調べ、じっくり観察し、今までやってきたこととの共通性や違いを探し出し、なるべく早く「本質は何か」を探し当て、自分に合うかどうかしっかり吟味する」という癖があるらしい。 しかもその作業を、パソコンのデータ検索のようにものすごいスピードとパワーでやっている(…のだと思う。自分のことはよくわからないのよね)。 そんな私を周りで見ている人の中には「批判的、挑戦的、生意気」と感じる人もいるらしい。でも、私の中ではあくまで単なる「全力で、細部まできっちり観察、検討」という感覚なのだ。 この現象を「色」にたとえてみる。 私は「観察、検討」という「青色」のエネルギーをメインで使っているつもりなのだが、「全力で、できるだけ早くっ!」という気持ちがあるため、知らず知らず、燃えるような「赤色」のエネルギーも発してしまう。しかも、慣れないことにチャレンジしている余裕のなさから、思いっっっきりあらんかぎりの「赤」のエネルギーが出てしまう。 こういう時に、「赤」が大嫌いな人が私を見ると、 「うわっ! すごい「赤」! 「赤」の強い人って、「黒」も持っているのよねっ。ということは、あの違う色は「黒」かも!」 と、「青」を「黒」と勘違いする。 そして、「赤」のエネルギーに「黒」のエネルギー、つまり「嫌な感じ。攻撃的な感じ。ドロドロした感じ」が加わると、「批判、挑戦的、生意気」と認識される…というわけ。 こうした時、自分に余裕があれば、 「ああ、私のことを「赤黒」と捉えたのね。なるほど…。この人はこういう時に「赤黒」と捉える癖があるんだ」 と静かに観察していられる。そして、相手が落ち着いてくれば、 「ああ、「赤黒」と思ったのは、私の勘違いだったわ」 と思ってもらえる。 ところが余裕のない時には、相手から「赤黒!」と評価されると、カチンときて、 「なんですって! 赤黒ですって?! 私のことを批判的、挑戦的、生意気って思ったのね!」 と本当に「赤黒」のエネルギーで対抗してしまうため、赤黒の悪循環がお互いに続く…というややこしいことになるわけだ。 「そっかー。私の無意識のパターンに反応して、相手がいつも似たような反応をしてたわけかー」 と、妙に納得してしまった。 「周りの人は自分の鏡。自分の対応が相手の対応を作る」 というけれど、なるほどこういう風に作られるのかあ…と、まざまざと体験できて面白かった。 やはり、たまには新しい環境に身を置いてみるもんだ。 |
ロハスな生活
2007 / 06 / 22 ( Fri ) 最近、余暇を利用して、いろいろな手作りを楽しんでいる。
天然酵母パンを作ったり、梅干しを作ったり、干し野菜を作ったり、ベランダ菜園を作ったり、いろいろな漬物や保存食を作ったり…。 「おいしくなあれ。おいしくなって、私たちに元気をいっぱい分けてちょうだいね」 と話しかけながら、その時期にしか取れない食材ととことん向き合って…と心と体を働かせていると、昔の人々の生活の知恵をあらためて教えられ、季節を肌で感じられて、生きている実感がわいてくる。 余暇をほんのちょっぴり割いて、ワクワクしながらやるのがいいのだろう。義務や仕事でやったら、ここまで楽しくはないに違いない。 また、必死に仕事に打ち込むだけの毎日を繰り返していたら、小さな食材の命の息吹をこんなにも感じないままに、人生が終わっていたかもしれない。 ちょっとアウトローな道を歩いてきて、本当によかったなあと、しみじみ思う。 話は変わる。 世の中で物騒な事件が起こる度に、「自分もああいう事件を起こすかも」と不安を訴え続けて10数年過ごしていた人がいた。たくさんの人が「あなたは優しいから、そんなことはしないよ」と励ましても、どうしても不安はぬぐえない。 ところが、最近、あまりにも物騒な事件が続いたために、この人はついに、 「自分には、あそこまですごい事件を起こす甲斐性はない。そう気付いたら、「自分は悪いことはできない」と自信がわいて、元気になった! 」 のだとか。10何年来の不安症はこうして自然(?)解消。 ほんとに、何が人を助けるかわからない・・・。 あらためて、 「どんな出来事も、どこかで人のためになることがある」 と教えられた気がする…。 |
いろいろな角度から試してみる
2007 / 06 / 13 ( Wed ) 声楽を習い始めた。
昔から歌は好きで、友人にも歌好きが多かったから、カラオケなどにはよく行ったけれど、ちゃんと習ったことは一度もない。しかも、私は妹と違って絶対音感がないから、音を外すのが得意。 だから、「一曲でいいから、それなりの曲をちゃんと歌えるようになりたいなあ」と思っていた。 先日たまたま、ド素人にも声楽の個人レッスンをしてくれる教室を発見。ためしに体験レッスンを申し込んでみた。先生は女優の水野真紀さんを楽しくしたような感じの明るい人で、体の感覚を丁寧に教えてくれて、超楽しかった! 「そうだ! 歌うこと、声を出すことって、ものすごく楽しいことだったんだー」 と再発見! 実は、ちょっと前にお能を習い始めた頃のテープを聞き直していて、 「この頃って、節回しや技術は全くダメだったけど、とても伸びやかな声をしていたなあ。聞いているだけでこっちまで楽しくなってくる。 聴く立場なら、どんなに上手でも緊張して切羽詰まった声より、下手でもいいから楽しそうな声の方が気持ちいいかも… 今はどうあがいてもこんな声が出ない。どうしてだろう??」 と思っていた。 今回、声楽の先生から、 「声が、うわーっと出るのね」 とお能の師匠によく言われるようなご注意を受けて、はっと気がついた。 自分ではがんばらないように心掛けて声を出しているつもりだったけれど、「もっと上達しよう、もっといい声を出そう」という思いが、「わーっ!」とほとばしるような声になって出ていたらしい。 思い返してみれば、「声を出すこと」はいつの間にか「楽しいこと」ではなく、「努力。修業。修練。上達。忍耐。戦い…」にすり替わっていたんだと気がついた。 でも、長年染みついた癖はなかなか抜くのが難しい。そこで、またまたはっと気がついた。 「高音は中学で合唱をやった時以来使ってない。もしかしたら、高音の方が素直に声が出るかも!」 そこで、「先に高音で練習するのは無理でしょうか?」とお願してみた。「本来は低音から訓練するのだけれど、じゃあ、試しに…」と練習法を変更してもらったら、ばっちり、すんなり先生のご指示通りに声が出せる! しかも、この先生、すごく素敵なソプラノの声の持ち主! 一緒に発声練習をしていたら、なんだか頭上に天使が寄ってきたような感じになって、ゾクゾクして嬉しくなった! と同時に、全身から力が抜けて、体全体から自然に声が広がって出ていくのがわかった。 「ああ、歌うのって楽しいことだったんだー!!」 と久々に思い出せた感じ。この緩んだ状態で、謡いも謡えたら、また違った表現ができるのかもしれない。 いろいろなことに手を出してみると、ひょんな発見があるものだ。 声楽はしばらくハマれそうで、ちょっと楽しみ! |
花が開くとき
2007 / 06 / 06 ( Wed ) 最近、日々をゆったり味わい尽くすように過ごしている。これがなかなか気持ちいい!
食事をじっくり噛み締めて味わってみたり、ゆっくり緑の木々を味わいながらお散歩してみたり、窓から入ってくるそよ風の感触を味わったり・・・。 見慣れた風景、食べ慣れた食材も、じっくり味わってみると新たな発見がたくさんある。 特に、食事をよく噛んで味わって食べるようになってからは、 「飲み込むように、急いで食べていたときには、食材を100%生かしてなかったかも。100%食材を生かす食べ方が、命を大切に頂く、感謝していただく・・・ということかもしれないなあ」 と感じる。 食事をよく噛んでいると自然に、 「食べ物さん、ありがとう!」 という言葉も湧いてくる。また、緑を愛でながら歩いていると、 「木々の皆さん、今年もこんなにたくさんの緑を育ててくれてありがとう」 という言葉も自然に浮かんでくる。 そんな自分自身を見て、 「ああ、そうか。「すべてのものを神仏だと思い、すべてのものに感謝をささげなさい」と、いろいろな宗教で教えている極意や修行法って、本当は無理矢理がんばって、誰かからやらされることじゃないんだなあ。 こうやって、「きれいな自然だなあ」とか、「おいしい野菜だなあ」としみじみ感動していることが、物の中に存在する神仏に感謝していることになるんだね。 心にゆとりが湧いてくると、感謝って自然にできることなんだー。 それに、「あれ?気がついたら、感謝してた?」って感じる今の方が「すべてに感謝できる人間になる!!」と力んでいたときより、自然体で楽で気持ちいいかも! いつの間にこんなに自然体の自分に変わってたんだろう?? 」 なんて、びっくりしたりする。 こんな風に「なりたかった自分の理想像」を自分の中にふと発見した時はまた、 「理想の自分になろうと随分がんばってきたけれど、がんばらなくても時が来れば今の自分になれたんだろうなあ」 とも思う。 でも、人生を振り返ってみて、私はやはり私が歩いてきた道しか歩けなかったなあとも思うし、この道を歩いてよかったなあとも思う。 思い返してみると、人生の途中には、必死でがんばった時期、変わりたいのに変われなくて苦悩した時期、のんびり時間が過ぎていった時期…いろいろな時期があった。 でも、今の私から見れば、どれもその時期にしか経験できないことであり、一見ハチャメチャに見える行動にも理由があった。 だからこそ今は、 「どの時期の過ごし方も、それはそれでよかった。私の人生には意味があることだった。だから、人生、どんな過ごし方をしてもいい。思いっきりがんばるときにはがんばればいいし、変わりたくても変われない時には無理に変わる必要はないし、のんびりやりたいときにはのんびりやればいい。「私の人生、これでよかった」と思える日はいつか絶対に来るから…」 と今はしみじみ思う。 そしてたぶん、ものすごく努力しても、淡々と生きても、目的地に辿り着く時期はあまり変わらないのかもしれない。また、無理をして到着の時期を早めようとすると、どこかにひずみができてしまいやすいようにも思う。 花が咲き、実が実るにはふさわしい季節がある。 がんばっても、時期がこなければ花は咲かないけれど、がんばらなくても時期がくれば勝手に花は咲く。 でも、その「時期」を待つのは案外大変。じっくり淡々と待っているよりも、一生懸命がんばって何かに打ち込んでいる方が安心して待てる。だから、多くの人はがんばるのかもしれない…。 ところで、話は少し変わる。 食事や自然だけでなく、音楽やテレビ番組なども、じっくり味わってみると固有の波長がはっきりあることがよくわかる。以前から、ニュース番組は精神衛生上良くないことはわかっていたけれど(不安、恐怖、憎悪の感情を増強させやすい)、他の番組や音楽も「ある種の状況」を引き付けやすい波長が出ているんだと再認識した。 たとえば、元気になれる音楽、ヒーリング音楽などは、どん底から脱出するにはとても有効だけれど、元気になった後まで聞いていると、逆に足を引っ張られることがあるかも…。 本当に元気な人は「元気になれる音楽」や「ヒーリング音楽」など聴かないものだ。 「元気になれる音楽」「ヒーリング音楽」は、薬でいえば「どん底脱出成分」が入っている。「どん底脱出成分入りの薬」は脱出する時にはとても有効だけれど、元気になっても飲んでいると、「私はまだ治りきってない。元気じゃない」と暗示を掛けてしまう。元気が出る音楽などを聞き続けるのも同じ。 「この曲を聴かないと元気が出ない=私はまだ元気がない」と知らず知らずのうちに潜在意識に刷り込んでしまいやすい。気をつけたいものだ。 逆に、「なりたい自分」がある時には、「なりたい自分」が好みそうな音楽やテレビ番組をチョイスするといいかもね。 |
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