昼メロ系
2007 / 07 / 26 ( Thu ) 最近、昔のマンガをあれこれ読み直している。以前読んだ時とは、私自身の視点が変わっているので、違う印象が感じられてなかなか面白い。
たとえば、「ひどい! 私を捨てるっていうなら、死んでやる…!」とか何とか言って、自殺未遂…という昼メロ系のストーリーを読んだ時、以前ならば、 「誰かの命を乗り越えてまで、自分の意志を押し通すなんて、無理よねー。結局、狂言自殺とわかっていても、命張られたら、身動きできなくなるよねー」 なんて思っていた。でも、今回は、 「脅しで相手を繋ぎ止めても、お互い幸せになれないのがほとんどよねー。まあ、だから、その後でドラマなストーリー展開が成立するわけなんだけど・・・。 本当の意味でお互い幸せになりたかったら、当座はものすごく波風立つし、苦しいかもしれないけれど、自分の心に正直な道を歩いた方がいいんだけどねー。 でもまあ、心に正直に生きつつ、波風をそれなりに収束させるには、相当の技量と努力と時間が必要よね。きっと、それができないから、多くの人は「力(脅し)に屈する」という方向に行くんだろうなあ・・・。 ちなみに、平和なストーリー展開にするためには、ここで主人公はこういう風に行動し、こういうセリフを言う必要があるわね。ふむふむ」 となどと考えながら読んだ。 昼メロ系ストーリーって、「愛のドラマ」じゃなくて、本当は「執着と依存と同情のドラマ」だったのねーと、今更ながら思う。 そして、「日常生活をドラマな展開にするのも、平穏な展開にするのも、自分の対応次第」とあらためて思う。 でも、実践がうまくいって日常が平和になると、ついついドラマなストーリーを求めてマンガに、小説に、テレビに、カウンセリングに走るってことは、結局私は、ドラマな展開が好きなのかもしれないなあとあらためて自覚する今日この頃。 |
しきたり
2007 / 07 / 20 ( Fri ) 我が家は7月にお盆の行事をする。古い家なので、しきたり通りの手順、献立などがあって、結構面倒臭い。…と今までずっと思っていた。
でも、今回、 「いつもお世話になっているご先祖様、ありがとー♪今年のちらし寿司は、スペシャルバージョンだよー♪」 なーんていう自分が楽しめるノリで、一年に一回のおもてなしをしてみたら、なかなか楽しかった。そこで一つ気がついた。 「お盆はしきたりそのものが面倒臭いのではなく、「面倒臭いけれど、やらなきゃいけない。嫌だ嫌だ」と思っている家族の「気」が辛かったんだ」ということ。 たぶん、お盆の行事の始まりは、「いつもお世話になってるご先祖様に心を込めて感謝のおもてなしをする日」で、「献立やお迎えの仕方もある程度マニュアルがあった方が、考えなくて済むから楽」ということで「しきたり」ができたのだろう。 それがいつの間にか「しきたり」が優先になって、「破ると罰が当たる」という罪の意識がのしかかってきた。すると、「感謝」どころか、「うざい」ってことになってしまう。 これじゃあ、おもてなしされるご先祖さまもいい迷惑だ。 考えてみると、楽に生活するために作ったマニュアルや規則が生活を縛る鎖になることって多々ある。さらに、嫌々マニュアルに従っている人を見ているうちに「これって辛いことなんだ」と思いこんでしまうことも…。 ちなみに、私の場合、掃除がそう。 掃除をするとき、親がいつもイライラしているのを見ているうちに「掃除は面倒」という感覚が刷り込まれた。近年になって、「掃除はリフレッシュにすごくいい」と気がついたけれど、三つ子の魂百まで…ではないが、体調が悪くなってくると、「掃除は嫌なこと」という気分になってくる(でも、実際始めると、すごく気持ちよくなるんだけど…)。 知らず知らずのうちに、刷り込まれてしまった思い込みっていうのはすごいものだ! マニュアルやしきたりにとらわれないで、本質を大切にして、楽しく伝統を守っていきたいものだ。 |
ドラマの登場人物
2007 / 07 / 11 ( Wed ) 「自分を無にして神に委ね、完全な瞑想の境地に入って何かを表現すると、客観的には「どういう状態」に見えるのだろう」
と、ずっと考えていた。またその状態は、「夢中になっているうちに無我の境地に入って、神に突き動かされたように表現する」のと、どんな違いが感じられるのだろう。 たぶん、自分が仕事をしているところを客観的に見られたら、「ああ、こう見えるのか。二つの違いはこれね」とわかるような気がする。でも、いかんせん、どんなに客観的になっても、自分のことを「完全に他人の目で見る」ようには観察できない。 「他人になって自分を見られたら面白いのになあ。他人になって、自分自身を指導できたら、もうちょっとスムーズに人生も歩けたかもしれない」 なんてよく思ったものだ。 ところが、先日見た舞台で初めて「自分を無にして神に任せ、瞑想の境地で表現する」という演じ方を目の当たりにすることができた。その透明な美しさにとても感動した!! また、その境地を初めて見て「神は自分自身の美を存分に味わいたくて、たくさんの自身の分霊を作った」という真理をも体験的に理解できた気がした。本当に、他人が存在してくれて初めて、「自分」や世の中のものを詳しく感じ取ることができるのだろう。 きっと、いろいろな宗教が説いている「すべては一つ」「すべてが神」「神のみがある」という状態、つまり「全部持っている状態(天国? )」というのは、実はある意味、とーってもつまらなくて退屈な状態に違いない。 天国に住んでいて、すべてを持っているのにたった一人で孤独に生きている神様は、退屈で寂しくなってこう思ったのかもしれない(?)。 「家も、車も、宝石も、健康も、世の中のものは何でもみーんな持っている。持っているものって、ありがたみが感じられないし、「持っているぞー!」という実感も感じられないんだよねー。 それになにより、一人ぼっちで何千年、何万年、何億年も過ごすのは超退屈―! 天国って、なんて寂しくてつまらない所なのー! これじゃ天獄だわー。 いっそ、自分を細かく分けて、地獄も作っちゃおうかしら♪ 「白しか持たない人」「黒しか持たない人」…などなど、全部分割しちゃおう! そうしたら、白さんは、 「すごいなあ! そんな見事な真っ黒を持っていて! かっこいいですね」 と黒さんを褒めるかもしれない。黒さんも、 「輝かしいばかりの白ですねー! すてきだなあ! あなたみたいになりたい!」 と、白さんを羨ましく思うに違いない。そうしたら、白さんは、 「そうか! 僕は黒は持ってないけど、すっごくステキな白を持っているんだ。へへへ、ちょっと鼻が高いぞ!」 と、持っているものを自慢できるぞ! それから、「ちょっと青っぽい白を持った人(水色さん)」も作ってみよう。きっと、水色さんは、白さんを見て、 「そうかあ、黒さんから見たら、僕は白さんに似ているように見えるんだー! 僕の中の白い部分って、客観的にみると白さんみたいに見えるんだね」と、他人を通して「自分の一部」を確かめることができる。 そして、神である私は、黒さん、白さんはじめ、みんなのドラマを眺めて楽しむことにするんだー! うんうん、よきかな、よきかな」 なんて思ったのかもしれない。 そんなことを考えていると、人生で出会う人は、好きなタイプの人だけでなく、苦手なタイプの人を見ていても結構楽しく感じられてくる。 「そっかー。この世であの役を引き受けてくれる人がいたから、私は「私」という役を演じられたのかもー。私のやりたくない「大変な役」を引き受けてくれてありがとう!」 「そうか、そうか。この人は私に「これ」を見せてくれるために(教えてくれるために)、この役を引き受けて、私の人生物語に登場してくれたのかー。感謝感謝!」 そんなことを呟きながら、「自分の人生」の脚本家になったつもりで、「目の前の人物をドラマに登場させた意味」を考えていると、めちゃめちゃ楽しい♪ 最近の私の密かな楽しみである。 |
心地いい場所
2007 / 07 / 03 ( Tue ) よく見る夢がある。
子供のころに住んでいた古い我家の二階で、吹き抜ける風を楽しんでいる夢。もっとずっと小さい頃は、「磨きこまれた黒い床板が張られた数寄屋造り(?)の部屋から、四季折々に移り変わる庭の景色を眺めている夢」をよく見た。でも、残念ながら数寄屋造りの家には住んだことがない。なので「あれは、前世で一番幸せな時に住んでいた家に違いない」と勝手に思っている。 ちなみにどちらも、私にとって「最高に心地いい場所の象徴」みたいだ。 ちなみに、私は今の住居にも、「ひまわり」にもそれなりに満足している。でも、心というものは、「持ってないもの」を求めたがるようで、 「昔の家の二階に住みたいな」 「夢に出てくる日本家屋に住みたいな」 なんて思ってしまう。 でも現実に住んでみたら、きっと「隙間風がぴゅーぴゅー吹いて寒い! トイレは外に合って汲み取り式だし、水は井戸から汲んでこなきゃだめだし、夏はエアコンがないから、ものすごく暑いし…」とか何とか、不都合なところに目が行って、「今住んでいる自分の部屋」を夢で見て、「あそこの暮らしはよかった」と思うに違いない。 「心地いい場所」というのは、実は「実際の場所」というよりは、「心地いい場所で感じる心の感覚」なんだろうと思う。 安心で、温かくて、爽やかで、気持ちよくて……って感じ? 「最高に心地いい場所」の夢を見られるのは、自分の心の中に、ちゃんと「心地いい場所(状態? )」が存在しているということだ。常に心の中にその「最高に心地いい場所(状態)」を保っていられれば、「心地いい場所」を外に求める必要は全くない。 …でも、人間ってものは、「形として存在してないもの」は、なかなか「存在している」という実感が持てないものだ。だから、「形あるもの」を外に求めてしまうのかも・・・。 ところが、「形」を手に入れても、実際にずーっと心地いい状態にいたら、それはそれで、その状態に慣れてしまってありがたみを感じなくなってしまいやすい。 だから時々、ブルーな気分やちょっとした不幸や喪失感を味わって、「ああ、私って、あの時案外幸せだったのかも…」と確認しているのだったりして…。 あるいは、「こういう暮らしがしたい!」というのは、自分が目指す人生の究極のゴールで、そこに到達してしまうと人生ゲームが終わってしまうから、なんとかあれこれゴールに着くのを引き延ばして、楽しめるだけいろいろな経験を楽しんでいるのかもしれない。 TVゲームだって、何の苦労もなく、何のイベントもなく、あっという間にゴールにたどりついてしまうゲームなんてつまらない(…あ、楽しい人もいるか…。単純ですぐ終わるゲームが好きな人もいるもんね。でも私はロールプレイングゲームとか、推理ゲームが好き。あまりにもハードアクション・テクニックが必要なゲームは嫌だけど)。いろいろな隠しキャラが出てきたり、いろいろな宝物をゲットしたり、ハラハラドキドキ苦労があって、なかなかゴールにたどり着かないからこそ面白い。 人生だって同じ。 ネットの中の仮想世界で、自分の分身に違う生活をさせるのを楽しむ人がいるように、もしかしたら、天界にいる「自分の本体」は、この世という世界に「自分」を送り込んで自分のお気に入りの「人生ゲーム」を楽しんでいるのかもしれない??? …なーんて考えると、目の前の「大変」を乗り越えたり、悪役キャラに立ち向かうのがちょっと楽になって、「最後にはバラ色のゴールに辿り着ける可能性がある」と信じやすいかもねー(笑)。 |
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