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足るを知る
2007 / 08 / 24 ( Fri )
携帯、パソコン、食べ物、服…などなど、次々と新しく出てくる新商品を見ていると、
「よくぞ、こういうことを考えて作り上げるよなあ。人間ってすごい」
と思うと同時に、
「人間に「もっとすごいものを!」という欲がなかったら、随分平和に暮らせるだろうに…」
とも思う。

もっといい携帯が欲しい、もっとおいしいものを食べたい、もっといい服を着たい、もっといい家に住みたい…などの欲がなければ、お金はかからない。生活にお金がかからなければ、釈迦力に働かなくてもいい。
そして、人々が「もっといいものを」「もっとたくさん」と望まなければ、世間の期待に応えて大変な思いをしてまで常に新しい商品を開発や大量生産をしなくてもいい。そうすれば、労働だって楽になる。

ところで、8月になると、「戦争のことを忘れずに」という活動があちこちで行われる。「戦いはいけない」と語り継ぐことはとても大切なことだけれども、同時に、「今という時代がどんなに恵まれているか」ということも大切に考えていきたいものだ。

でも、人間というものは悲しいかな、慣れてしまうと「今ある幸せ」に鈍感になってしまうものなのかもしれない。病院や老人住宅などで年配の方々と接する機会があると、戦争で「食べ物も、着るものも、住むところもなくて困った」という経験をしている世代の人たちですら、「食べられて、住むところがあって、着る物がある」ということに満足できず、不平不満を言う人は少なくない。
子供たちは大人の姿を見て学ぶ。子供たちが幸せで満足できる生活を送るためには、まず、大人たちがお手本になって、「当たり前の生活ができること」に日々感謝して幸せに生活して見せることが大切だよなあ…とつくづく思う。

でも、かくいう私も、昔に比べて、今は心穏やかでとても平和な生活をしていて幸せななのだけれど、時々平和すぎて退屈になることがある。そして、身の周りで何かちょっと大変なことが起こった時に、「ああ、ものすごく幸せな毎日を生きていたんだ」と再認識させられることが多い。
結局、「当たり前の幸せ」に感謝し続けるのは難しいことだからこそ、時々大変な体験をして、「普通で十分幸せよね」と確認、感謝するチャンスを得ているのかもしれないなあ、とも思う。
23 : 18 : 52 | ひとりごと | page top↑
日々のあれこれ
2007 / 08 / 17 ( Fri )
 以前は「未来がわかったら、安心なのに」と思うことが多かったけれど、最近は「未来がわからないって、楽しいことだなあ」と思う。

 たとえば、車を手に入れることを考えてみる。
 まだ車を手にしてない時には、
 「こんな車が欲しいな。あ、あの車もいいかも…」「もしかして、誰かが車をプレゼントしてくれるかも」「景品で車が当たったりして」「高いから、一生車なんかには縁がないかも…」「車が手に入ったら、あそこも、ここも出かけよう」「毎日きれいに洗車してあげるんだ♪」・・・
 なんて、ワクワク夢が膨らんだり、「ダメかも・・・」とがっくり落ち込んだりと、どんな形でも想像を膨らませて楽しむことができる。ワクワクも、がっくりも、現実になっていない時だけ楽しめる「想像(創造?)の楽しみ」だ。

 ところが、現実に車を手にしてしまうと、「やっぱり、あっちの車の方がよかった」「洗車って面倒」「渋滞が多いから車って案外不便」「税金や車検など維持費もバカにならない」などなど、現実的なことばかり目に入って、ワクワクがなくなってしまうことも少なくない。それに、「現実」になってしまうと、おいそれと変えることも難しい。

 「どうなるかわからない未来」は確かに不安もあるけれど、反面、いろいろな可能性と、想像(創造)と選択の余地がある。一見嫌な感情と感じられる「不安」だって、現実になっていないからこそ感じられる体験だ。
 だったら、その時しか感じられない「不安」や「期待」という感情を楽しんでみるのも、面白いかもしれない。案外、「現実」になったときより、ずっとずっと楽しい時間が過ごせるかも…。
 
 話は変わる。

もうすぐ弟のところに第2子が生まれるもので、出産にまつわることをあれこれ考えるチャンスが多い。

医学の発達のお陰で、母子ともに危ない時には、薬や手術で手助けすることができるようになり、助からない赤ちゃんも助かるようになった。それは素晴らしいことだけれど、反面、親や病院の都合で、計画的に効率よく楽に産むために、無痛分娩、帝王切開を選ぶケースもあるみたい。
これって、子供の方から見たら、「いい迷惑」ってこともあるんじゃないかな。

胎内記憶を持っている子供の中には、帝王切開で生まれた時のことを「もう少しのんびりしようと思っていたのに、いきなり、頭にメスの刃が当たって、まぶしくなって、無理矢理外に出された」と語ったり、陣痛促進剤を使われた時のことを「首にへその緒が絡まっているから、なんとか外そうと四苦八苦してたら、いきなり強く押されて、酸欠状態になって、命からがら外に出た」と語ったなんて話も聞く。

自然な分娩開始は赤ちゃんからの「準備ができたよー」という合図。合図がないってことは、赤ちゃん的にはまだ出てくる気がないってこと。そして、陣痛がなかなかつかない時には、赤ちゃん自身が絡まった臍帯を直していたり、産道に合わせて頭の大きさを調整したりと工夫しているから・・・ということが多いんだそうな。
いろいろな角度から見てみると、何事にも「そうなる理由」っていうのがあるんだよね。

また、自然な陣痛は必ず収縮と弛緩がある。子宮が収縮しているときは、お母さんも辛いけれど、赤ちゃんも酸素不足になって苦しい。弛緩しているときに、お母さんが深呼吸してたっぷり酸素を吸うことで、赤ちゃんもゆったり深呼吸できる。
でも、陣痛促進剤で無理矢理人工的な陣痛を起こすと、収縮ばかり強くて、子宮がゆったり弛緩する暇がなくなりがち。こうなると、赤ちゃんは常に酸欠状態になってしまう。この時、無痛分娩だと、お母さん自身はのんびりラクチンだけど、赤ちゃん一人だけは何時間もマラソン状態にさせられることになる(赤ちゃん、かわいそう…)。

でも、今時の産院は、お医者さんも親御さんたちも、「大人の都合」だけ考えて、赤ちゃんがどんな思いをしているかについて、考えない…というより、考えが及ばないことが多いんだろうなあ。
知らず知らずとはいえ、生まれてくるときから親の都合を強いられてきた子供は、成長のいろいろな段階で、やはり知らず知らず親の都合を押し付けられることが多くなるのだろう。そして、思春期になって、「親の敷いたレールの上を歩かされてきた」と気がついて、親曰くの「問題行動」を起こすんだろうなあ…なんて思ってしまった。

でも、もしかすると、生まれてくる赤ちゃんの方が、帝王切開や人工的なお産を選ぶケースもあるかもしれない。
前世で、生まれるときにものすごく大変だった記憶のある魂などは、
「帝王切開なんて、楽な生まれ方があるんだったら、その方がいいや。医学が発達していない時なら、そういう選択肢はなかったけど、どうせ現代に生まれるなら医学の恩恵にあずかる人生の始まりもいいよね」
なんて考える子もいるかもしれないし、
「陣痛促進剤を使うと、さっさと出られるらしい。すっごく苦しいかもしれないけど、その分、苦しむ時間が短くて済むなら、それもいいかも。どのくらい苦しいか、怖いもの見たさにやってみよう」
なんて、ジェットコースターにチャレンジする気分で、陣痛促進剤を使ってみたがる子も絶対いるに違いない(でも、「やっぱり、いいことばかりじゃなかった。自然な方がよかったかな」と後悔することもあるかも…?!)

そうなると、どういうお産がいいとか、悪いとかはなくて、すべては両親と子供の選択次第ってことになるんだろう。

ただ、私としては、帝王切開や陣痛促進剤などの利点欠点をお母さんの立場で考えるのと同じくらい、お腹の子供の立場でも考えた上で、その時々のお母さんと子どもにとって一番楽な方法を選択したらいいのになあ、なんて思う。

ところで、パニックになったり、うつになったりしている人を何日間か、ひたすらこんこんと眠らせると、嫌なことや大変なことが自然に整理されたり、どうでもよくなったりして、前向きに歩きだしやすくなることがある。

それと同じで、生まれる前に「お腹の中で、ひたすら多くの時間をこんこんと眠り続ける」という時間は、魂にとって、いらない前世の記憶を完全に消去して、まっさらな状態にリセットする時間なのかなあ、とふと思う。

前世のことを知りたがる人も多いけど、知らない方がいいから覚えてない人が多いのかもしれないし、今までと全く違う人生を歩くには、前世の記憶などない方が都合のいいことも多いに違いない。

ついでに、子供が生まれるとき、親は子供と一緒に自分の人生をもう一度新たにリセットしてやり直すチャンスを与えられているような気がする。
子供の成長を通して、自分の人生をもう一度客観的な目を通して振り返り、新しい親自身の人生が創れたら素敵かもね。
でもその時、親自身が「自分の人生をリセットしよう」とせず、「自分の夢を子供に託そう」としてしまうと、大変になりやすいんだよねー。
18 : 47 : 45 | ひとりごと | page top↑
家系の課題
2007 / 08 / 08 ( Wed )
母方の叔母が亡くなって、久しぶりに親戚一同が集まった。
母の家系は、ものすごく情が厚くて、世話好きな人間が多い。さらに、じっくり観察してすると、他にもいろいろな共通点がありながらも、それぞれバリエーションのある人生を生きていることに気づいた。

実は、子供の頃、漠然と親戚の一人一人を見ながら、
「なぜ、この人はこういう人生を歩いているのだろう。なぜこの人は、いつもこういう行動をするのだろう」
 と思っていた。でも、今回、
「ああ、家系から引き継いだ課題のために、無意識にこういう人生を選び、こういう行動をとっているのかも…」
と理解した。
 
 多分、「家系に伝わっている人生の課題」のようなものがあって、母の両親が背負っていて達成できなかった課題「A」は、母の兄弟の代で「A1,A2,A3…」と分かれ、私たち姉弟の代になってさらに、「A3-1,A3-2,A3-3」と分かれ…というように、脈々と受け継がれてきているのだろう。

 もし、母方のご先祖様たちが、私の後ろで、私の目を通して、自分たちと自分たちの子孫の人生を見ることができたら、
 「ああそうか。私がぶち当たったこの問題は、こうやって乗り越えればよかったのか。また、家系の中で、私の人生はこんな役割があったんだ!
子孫たちは、私のことなんて全く知らないで生きているけれど、私が人生の中で必死で掴んだ知恵とパワーが、こんな形で子孫たちに受け継がれて、広がっている!
私の人生もまんざらでもなかったかもしれない」
と思っているかもしれない。

 よく、親子関係のことで悩んでカウンセリングに来られる方に、
「親が超えられなかった課題を乗り越えて、「ああ、親も同じような問題を抱えていたのね」と思えたら、それだけでものすごい親孝行をしたことになるのよ」
 なんて話をするけれど、実は、親の課題を乗り越えられれば「先祖代々孝行」になるんだと、今回実感した。

母とその兄弟、母の両親、そして、そのまた両親・・・と、先祖代々の長きに渡って受け継がれ、それぞれが悩み、苦しみ、迷ってきたであろう「先祖代々の課題」に、ようやく一つの答えを出すことができたのかもしれないと、ホッと肩の荷が降ろせたような気がした。
思わず、
「ご先祖様たち、ありがとう。みんながそれぞれの人生を頑張ってくれたおかげで、私はようやく課題を乗り越えることができました」
と感謝したくなった。
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