荒波をすり抜ける
2007 / 09 / 28 ( Fri ) 今月は、「一見最大級の不幸に見えることを、いかに被害を最小限に食い止め、さらに最高のチャンスに切り替えるか」というテーマを客観的にじっくり見つめるチャンスがたくさんあった。
私の周囲は日本の内閣よろしく激震していたのだけれど、「人と場の流れ」を読んだお陰で私自身は台風の目の中で安全かつ平和に判断対処ができた。 今回の経験のお陰で、つくづく、 「場にも人にも「流れ」があって、それは自然の天候のようなもので人の力では変えることができない。でも、「流れ」の中ですべての人が気持ちよく過ごせる方法を考えれば、混乱は最小限で幸いを生む」 とあらためて感じた。 たとえば、集団(場)のエネルギーが、 「オリンピック目指して、一致団結してがんばるぞ!」 という方針を打ち出したときに、Aさんが必死で、 「健康を保持し、スポーツそのものを楽しむことこそが、運動で一番大事なこと」 と集団の人々を説得しても、お互いに空回りするばかり。 これは「どっちが正しいか」という問題ではなく、「集団(場)はオリンピックを目指す方向」、でも「Aさんはスポーツを純粋に楽しむ方向」に向かうのが「流れ」というだけのこと。 自分の「流れ」が、集団(場)の「流れ」と違う時には、無理に集団を変えようとせず、自分に合った集団(場)に移った方がいざこざはなくスムーズにいくものだ。 ところが、多くの場合、 「何とか自分の思いを理解してもらおう。何とか自分の思う通りに相手を変えよう」 と必死に、集団と格闘して消耗した挙句、 「私の考えは間違っているのかもしれない。私はダメだ」 と思い込んでしまうことが少なくないようだ。 自分の思いや方向性を提案し、理解してもらえるようコミュニケーションを取ることはとても大切だけれど、性格や考え方や方針が全く違う時には、どうしても分かり合えないこともあるもの。 そんな時には、 「ああ、この人たちと私とは、持って生れた役目や生き方が違うのかも。この人たちはこっちの道で頑張ってもらって、私は私自身を一番生かせる道を考えてみよう」 と切り替えた方がよりスムーズに自分らしい人生を楽しく歩くことができる。 そして、いろいろ動いた結果、自分に合う集団がないならば、自分が中心になって集団(新しい場の流れ)を作るのも一つだろう。 「この場所、この集団はどんな方向に流れていこうとしているのか。私自身はどんな方向に流れていたいのか。私の流れと、私のいる場所の流れは合っているか?」 ということを常に頭の片隅で意識していると、案外、荒波にも巻き込まれずにするりするりと人生を渡っていけるかも・・・。 テーマ:モノの見方、考え方。 - ジャンル:心と身体 |
変えなければならない?
2007 / 09 / 25 ( Tue ) 「神の目から見たら、変えなければならないことは世界には一つもない」
という時の「神様の目」ってどういうものだろう? それって、たとえば私たちが映画や芝居や小説本を眺めているような目だったりするのかもしれない。 映画や芝居を見て、「ここで、こういう役を登場させれば盛り上がるかな」とか、「私なら、この役はこんな風に演じるのに」とか、「この話って今の私と重なるなあ」とか、「私ならこういう映画をつくる」など、いろんな感想は持っても、 「物語の中には、絶対悪人を登場させてはいけない」 なんて規則を作る人はいない。 そんなことをしたら、物語がつまらなくなってしまう。 白雪姫の物語は、魔女や毒りんごが出てくるからこそ、ドラマチックな展開になり、最後に、姫は王子様と出会える(?!)。それに、 「白雪姫は幸せに生まれて、幸せに年をとり、幸せに死にましたとさ」 なんて絵本は誰も見たくないかもしれない?! 「ドラマで殺人事件が起こっても、役者の生命には問題ない。悪役専門の役者も、実生活では普通の人」と私たちが知っているように、神様から見たら「この世の人生は、魂が自分の勉強と楽しみのために演じている役柄。魂は不滅で深い部分では傷つかない。悪役を演じた魂も、魂になればきれい」と見えるのかもしれない…とも思う。 そう考えると、世の中で起こっていることはすべて、神様の広い視点から見たら、すべて必要なストーリーなのかもしれない。 それでも、私達はついつい、 「こんな世の中じゃいかん! なんとかして変えなければ、平和な世の中にならない」 「この人たちは成長するために、もっとこういうことを学ぶべきだ!」 なんて思ってしまう。 こんな風に思う時、実は、「変えなければならない問題」は世界にあるのではなくて、自分自身の中にあるのかもしれない。 「自分の中の変えたい部分」は自分ではわかりにくいから、「他人の行動」の中に投影してはっきり自覚することで、少しずつ気づこうとしているのかもね。 でも、神様の目から見たら、「変わりたいのに変われない」ともがいている人間ですら、「大きな芝居の中の大切な一つの役回り」だったりするのだろう。だから、「変わりたくても変われない」という人間のままでも、神様から見ればOKってことなんだろうね。 |
塞翁が馬
2007 / 09 / 12 ( Wed ) 「このままだと、トラブルが発生するなー」とわかっていながらも、どうにも阻止できず、ただ起こるのを見守ることしかできない時がある。
わかっているのに見守るのは辛い。トラブルが起こるのに気がつかない方が気楽だよなあと思ったりもする。 それでも、なんとかトラブルを阻止したくて、 「このまま続けると病気になるよ」 「それは危ないよ。事故を起こしたら大変」 など、あれこれ注意を促してみる。でも、本人が納得していないと、忠告は耳に入らないもんだ。 誰だってできることなら、トラブルなんてない方がいいと思う。でも、赤ちゃんが転ぶことなしに歩くことを学べないように、失敗無くして人生を学ぶことはできない。 どうにも阻止できないトラブルというのは、もしかすると、神様の目から見たら、 「トラブルが発生した方が、長い目でみたら利益を生むことが潜んでいる」 のかもしれない。 たとえば、誤って子供を事故死させた親が、その後「子供を亡くした親の会」を作ってたくさんの人々の心を救ったり、地震災害に遭った人々が次に起こった地震の時に最高の援助者になったり…。 トラブルが起こった一瞬だけを見ると、とてつもなく不幸な出来事に見えることでも、未来において素晴らしい功績を生む礎になっていることは少なくない。 人間は神様ではないから、ずっと先の未来まで見据えて、今日の出来事を見つめることが難しい。だからこそ、万事「塞翁が馬」で、とてつもなく不幸な出来事が起こったときほど、 「このことが、神の目から見たら、未来において大きな幸せの礎になるのかもしれない」 ということをいつも心に留めておきたいし、そうあることを常に祈っていたいと思う。 閑話休題。 先日、何気ない所作の美しさに感動する機会があった。 水を汲む、歩く、空を見るといったごくありふれた動きでも、「動き」と「心」が完全に一致した時、そこにはものすごい美と癒しが生まれるんだなあと、しみじみ思った。 たとえば、名人が一服の茶を立てるときには、茶碗、茶筅、お湯、庭、客、自分自身が完全に一つと感じられるほどに、瞬間瞬間の茶事に集中しているのかもしれない。名人の一服の茶に素晴らしい癒しの効果があるのは、そういう理由からなのだろう。 たぶん、「自分がやっていること」と「心」が100%一致した状態で、完全に「今」に存在することができたら、たとえ歩いているだけでも周りの人は癒されるような気がする。 でも、人には無意識の煩悩がいっぱいあるから、なかなか100%「今」に集中するのはものすごく難しい。 あるいは、キリストとかブッダは、もしかすると24時間365日心と動きが一致できるくらい、自分自身の心を訓練できていたのかもしれない。 だとしたら、本当にすごいなあ。 |
縁
2007 / 09 / 06 ( Thu ) 最近、「縁というのは不思議なものだなあ。どこにどんな縁が転がっているかわからないもんだ」とつくづく思う。
たとえば、うちのクリニックに来られる人の中には、 「たぶん、亡くなられたおじいちゃん(あるいは、おばあちゃん、父、母、知人など)がこの人をここに導いてきたんだろうな」 と感じられることが多々ある。 先日はそれだけでなく、 「地縛霊になりかかっていた「ある霊(人?)」が通りかかった人に助けてもらった。でも、助けた本人は人助けならぬ「霊助け」をしたことに気づいてない。そこで、助けられた霊が、この人に「霊助けをする力があること」を教えるためにうちのクリニックに導いた」 なんてケースもあった。 話を聞いていて、 「そうか、この霊(人)がこの場所で死んで、この人に助けられたことで、この人がさらにたくさんの人々や霊たちを助けることになるわけかー。 死んだ後も縁があって、生きている人、死んでいる人、たくさんの人々を助けることに貢献することがあるんだー。そして、この霊はそのことを私に教える役割も持ってたんだ。すごいなあ」 とちょっと感動した。 人生って、気がつかないだけで、いろいろな縁があって、うまく必要な時に、必要なところに導かれるようになっているのかもしれない。 たとえば、子供の頃、親の転勤がなくて、親の収入が少なくなかったら、私は自分の母校に行かなかったかもしれない。そうしたら、人生は違っていただろう。 自分で選択できる要因、選択できない要因、その時限りのいろいろな縁が重なり合って、私は高校、大学、仕事を選ぶことになり、今に至っている。 どの縁も「今日の私」を作るために必要不可欠だったと考えると、そうした縁が一つも間違うことなく自分の人生に存在してくれたことに、感謝の思いで一杯になる。 |
様々な生き方
2007 / 09 / 03 ( Mon ) 友人経由で、久々に「女を武器にしてトップに上り詰めていく女性」のリアルな日常生活の話を聞いた。レディスコミックや官能小説も真っ青、迫力満点!
いやあ…ほんとに世の中にはいろんな人生があるもんだ。 ちなみに、友人は、 「彼女の生き方と純ちゃんの生き方って、全く正反対だよね。俗を目指すかか、聖を目指すかって感じ?」 と言っていたけど、私は逆に、 「目指している方向が正反対なだけで、根本は全く同じだなあ」 と思った。 金銀財宝ザックザクの「宝の山」を登っているのか、はたまた厳しい修験道の「仙人の山」を登っているのか…。 どちらの山を登っても頂上に着いた一瞬は「おお! 下界を見下ろすってなんて気持ちいい!」と思うけれど、ふと周りを見回すと「げ! 他にもすごい山があったじゃん! 悔しい! 」と思って、延々「あの山、この山」とがむしゃらに登り続けることに終始しがち・・・という点では、全く同じ。 どうも「すごい山の登頂に成功した」という事実ばかりが偉いと思われがちな世の中だけど、肝心なことは「登頂した時の満足感、自由感、広がり感、自信感、開放感、安心感…」をしっかり味わって、 「私の中には、こんな素晴らしい感動、感覚が存在するんだ! しかも、この素晴らしい感覚、感動はいつでも思い出そうと思ったら思い出せるんだ」 と確認することだよなあと思う。 人間って、目に見えるものに惑わされやすいから、ついつい、 「あの山の頂に行かないと、あの感動は味わえない」 と誤解しがち。 確かに、素晴らしい感動を呼び起こすのに、山頂の景色や苦労して登ったという体験は引き金になっているけれど、「感動そのもの」は自分の中にあるもの。 例えていえば、どんなに素晴らしいデジタル放送が流れていても、地上波しか映らないテレビでは受信できないのと同じ。 「感動できた」ということは、感動する力は山にあるのではなく、自分自身の中にある。感じた「素晴らしさ」は、そっくりそのまま、自分の中に「エネルギー」としてすでに存在している。 そして、そんな「素晴らしい自分」を普段の普通の生活の中で感じられるなら、別に山に登る必要なんかない。 誰かから「こうやれば、こんなすごい山だって登れるのに!」と言われても、 「ううん。いいの。私は単に山登りそのものが好きなだけだから、ハイキング程度の山に時々行くのが向いているのよ」とか、「私は平地で暮らすのが向いているみたい」とか、「私は高原の生活が好きかな」とか、「私は山より海が好きみたい」…etcと、きっぱり自分の好みが言い切れて、自分に合った生活ができることの方がすごいと思う。 さらに、何の変哲もないごくごく普通の生活をしながら、 「私は今の暮らしが一番好きで、幸せで、自分に合っている。今あるものだけで十分満足だし、感謝しているわ」 と心底言える生き方が、簡単なようで一番難しいと思う。私はそういう生き方をしている人を尊敬するなあ。 でもまあ、 「物やお金や人や地位や体験を得ることでは、決して幸せになれないし、満足も出来ない。実は、周りの環境に関係なく「満足感」「安心感」はいつでも得ようと思ったら、自分の心の中にあるんだ」 と気づくまでは、がむしゃらに山を登り続ける方が安心だし、充実できるのも事実。だったら、後悔のないよう、あの山この山と徹底的に登ってみる人生もありだ。 どんな生き方でもいいから、せっかくなら後悔ないよう、思い切り好きなように生きるのが一番だよね。 |
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