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一年を振り返って
2007 / 12 / 27 ( Thu )
早いもので、2007年もあと数日。

 今年を振り返ってみると、たしか去年の今ごろ見た夢「壊れたジャンボ機を置いて小型飛行機に乗り換える」に象徴されているような一年だった。
 生活や身の回りのもの一つ一つを「いるかいらないか」と検討し、いらないものはどういうタイミングでどのように手放すか、残すものはどういう形で残すかを、一年間ずっといろいろな形で考え続けた。
 11月はその総決算のような月で、気持ちの上では人生の向き合い方が180度変わるくらい切り替えを迫られた。でも、その割に実生活の変化はせいぜい「日々を丁寧に生活するようになった」くらい。ただ、数年前に比べて、ごく普通の生活が随分面白く感じられるようになってきたのは収穫だったかも。

また今年は、自分自身と自分の人生をじっくり見直したお陰で、
「気持ちの赴くまま、一生懸命無我夢中で理想に向かって走ってきて、充実した面白い人生だったけれど、「本来の自分」をどこかに置き忘れてきたかも…」
とはっきり気づくことができた。

振り返ってみると、今までの人生は、
「こんな自分になりたい。こんな心で過ごしたい。こんなことができるようになりたい」
と「自分の理想像」に近づくために、切磋琢磨する生き方だった。
「理想像」に向かう旅は、決して平たんではない。また、年を重ねいろいろな知識と経験を積むうちに、「理想像」は随分修正され、変化してきた。大きな壁にぶち当たる度に、「それまで持っていた理想像」を捨てて、「新しい理想像」を受け入れる決意をするのだが、その作業は「それまでの自分を殺して、新たに生まれ変わる」ように感じられ、かなり苦しかったものだ。

そして、今年。ある意味で「自分が今まで求めてきた理想の生き方」を達成したようにも思う。終着点に達してみたら、案の定、やはり先人たちと同じく「我が家」に帰りたくなった。「最高の理想の姿になった自分」より、最初から自分の中にいて、蔭で見え隠れしていた「本来の自分」の方がずっとずっと心地いい姿だとあらためて再確認したからだ。

なので、来年は私にとって「本来の自分」に完全に還る年になりそう。ただ、随分長い間、「本来の自分」とはまるっきり正反対の生活を重ねてしまったため、物理的な軌道修正には時間がかかりそう。
今思うと今年は、知らず知らずのうちに物理的な軌道修正をする形になり、精神的な面ではほぼ「本来の自分」に戻る形になっていたのかも・・・。たぶん、来年は物理的にもよりはっきりした形に変わっていくんだろう。ただ、今の段階では方向性がイマイチはっきり見えないけれど…。

まあでも、未来なんて見えない部分があった方が楽しいもんだ(サプライズあっての楽しい人生よね)。方向性だけ合っていれば、大きく道を踏み外すことはない。
来年は、自分自身のために、さらに気持ちいい選択を重ねて素敵な一年を創り上げていこうと思う。

皆様も、よいお年を!
01 : 05 : 24 | ひとりごと | page top↑
求めない? 求めたい!
2007 / 12 / 20 ( Thu )
映画「マリと子犬の物語」を見に行った。
 ストーリーは予告宣伝通りで、取り立てた内容はないけれど、犬がとても可愛く、自然もとてもきれいに描かれていた。また、地震の描写がすごくリアル。

一時長岡に住んでいたことがあったので、
 「もし、自分がこの場にいたら、どんな風に行動しただろうか。災害の時には、どう行動すると一番いい結果が生まれやすいだろうか」
 と真剣に考えさせられた。

 また、マリが無事に保護されたシーンでは、地元のエキストラの人たちがとてもいい表情をしていた。
「ああ、実体験をしたからこそ、この表情が出るんだろうな。どんな素晴らしい演技も、本物を味わったこの表情にはかなわない」
 としみじみ感じた。

 ただ、「命の恩人の犬が助かってよかった」と共に喜べるのは田舎ならでは…かもしれないとも思った。これが都会の大地震だったら、「犬より人間が大事だ!」となるだろうし、中には壊れた町や自然を見捨てて、さっさと出ていく人だっているに違いない。
すべての命を平等に労わり、共に支え合っていくには小さな村の方がいいのかもしれない。

ところで、自然災害にしろ、日常生活にしろ、辛い体験はしないに越した方がいい。でも、してしまった以上は乗り越えるしかない。そして、乗り越えると、次に大変な体験をした時に、
「前の時はもっと大変だった。あの時ほどじゃないから、何とかなる」
と思えるのは強みだ。

ついでに、何度も何度も大変な体験を重ねると、
「辛くてどうにもならない時は、考え込むとますます辛くなる。だったら、何もせずひたすら、泣きながら寝てしまえ!」
なーんて、大変な最中に何もしないでひたすら寝ていられるようになる。それって、案外力強いことかもしれない。

そして、一番力強い生き方は…と考えると、
「過去も未来も見ず、ただひたすら、目の前の「今」「今日」だけに集中する。執着をすべて捨てて、今目の前にあるものだけにひたすら感謝する。木や花のようにただ呼吸して、食事をして、眠る…など、淡々と生命を存続することだけに集中して生きる」
という生き方なんだろうなあと思う。
そういう生き方ができたら、どんなときにも「平常心」でいられて、心の揺れも起こらず、平和で幸せな気持ちが続くだろう。いわゆる、今はやりの本「求めない」の極意ってやつ?

それでも、わかっていながらも日々の生活の中では「おにぎりは昆布より、シャケか明太子がいいのに…。どうせなら無添加のものが…」とか不満が出てくる。
ヨガの達人や修行僧のように、「平常心」「求めない心」の究極の境地に至れない私って、「修行が足りない?」って感じ? でも、最近じゃ、素直に「平常心って、私にはつまらないし、似合わないんだ」と開き直れるようになってきた。
やっぱり私には、感情が激しく揺れ動いている時の方が、生きている実感があって楽しいみたい。そして「すごく辛い、苦しい、絶望的…」という体験もまた、どこかで楽しんでいるようだ。

それでも、他人が私の生活を見たら、
「装飾品や贅沢品を何も欲しがらず、質素な生活をして、人のために身を粉にして働いて偉いわー。それに、大変なことをよくぞそんなに冷静に見ていられるわね」
というかもしれない。
でも、当の私は「ゴテゴテした装飾が嫌い。身の回りに物がない生活が好き。人の世話をするのが好き。大変なことを見ても、だいたい成り行きがわかっているから右往左往しない」だけ。決して「悟っているから」じゃない。自然体でいる結果が、こういう生活になっているだけなのだ。
たぶん、ヨガの達人や修行僧なども、生活が板についている人は、その生活が好きなんだろう。

いくら立派に見えても、自分に合わない生活をしたら意味がない。だったら、「平常心」や「求めない心」なんて偉そうなものにこだわらずに、いっそ思いっきりわがままを言ってこだわりまくって、ワクワクしたり、悲しんだり、苦しんだりと、その時々の揺れる感情と体験のままに、ハチャメチャに楽しみ、思いっきり求めまくればいいんじゃないかな、と思う。
そうしていろいろな経験を重ねているうちに、たぶん感情が揺れすぎて辛くなったら自然に「平常心」を楽しみたくなるだろうし、求め過ぎて辛くなったら自然に「求めない心」に行きつくだろう。
がんばって「平常心」「求めない」に達するより、自然に行きつく方がずーっとずっと楽だ。

それに、「平常心」といったって、世の中のすべては「諸行無常」だから、どんなに究極の平常心を目指したって、完璧な「平常心」なんてありえないはず…。
 ようは、日々自分の感じるまま、過ごしたいまま、自然体で生きていればいいんだろうね。でも「自分はどう過ごすと、楽で自分らしいのか」をはっきり認識できて、さらに「今のままの自分でいいよ」と言えることが、案外一番難しいのかも…。
00 : 14 : 41 | 心とからだ | page top↑
見守るって大変
2007 / 12 / 05 ( Wed )
先日、弟の息子の初宮参りに参加した。

「この辺じゃ、みんなM天満宮に参拝する」という事前情報通り、M天満宮は七五三と初宮参りでものすごい人だかり。御祈祷は20分おきに、一回10組近く社殿に案内されるのだが、それでも参拝者は後を絶たない。
しかも、狭い境内で、写真撮影も済ませられるようにとの計らいか、なんと「神楽殿」が写真館になっていた!

 「え、えー!! 神楽殿なんて、神様に舞を奉納する神聖な場所で、写真撮影なんて、俗な商売をやっちゃうんだー?!」
と、超びっくり!

 さらに、写真館の人が、
「赤ちゃんを機嫌よくさせるためには、おむつをはずしたほうがいいのよっ!
さあ、おむつをはずしてっ!」
 と、この寒空の下でおむつはずしを強要したことにも「?!」
でも、それ以上にびっくりしたのは、赤ちゃんの気を引くために、神社の賽銭箱の上にぶら下がっている鈴も真っ青なくらいデカイ鈴が3つもついたガラガラを思いっきり鳴らして、耳がつんざけそうな大声で、
 「はいはいはいはい! よしよしよしよし!」
 とあやし始めたこと。…絶句!

案の定、超デリケートな性格のボクちゃんは、
「いやーーーーーーーー!!! やめてーーーーーーーーー!! うるさーーーーい!!」
と火がついたように泣く始末。

すると、写真館の人たちのジャラジャラハイハイよしよし攻撃はさらにヒートアップ!!!!
でも、パパとママはさせるがままだし、他のギャラリー全員も黙ったまま。
ついに見るに堪え切れなくなった私が、
「あのー。その子、とってもデリケートな子だから、音と他人にびっくりしているかも…。静かな方が…ママが抱っこした方が…」
と口を挟んだら、かえって火に油を注いでしまった。

「私たちは撮影のプロよ! 口を挟まないでよ! 泣きやまないのはたまたま寝起きだったからでしょ!」
と言わんばかりの勢いで、
「寝起きだったからねー!! 大丈夫よー!! よしよし…ジャラジャラジャラ」
とさらにさらにヒートアップ!!!
ボクちゃんも負けじと、「イヤーーーーーーーーー!!」ともっと大声で泣き叫ぶ…。

以前の私だったら、とっくの昔に、
「こんなに嫌がってるのになんでわかんないのよー!! それでもプロなの?! 」
とケンカを売ってるところだ。
でも、最近の私はずいぶん大人になった(ホント?!)。
「私の子なら写真はあきらめるけど、弟夫婦はどうしてもここで撮りたいんだよね。確かに、この子にとっては辛いことだけど、いつも私がかばってあげられるわけじゃなし。今後も、自力で親に訴えていかないといけないわけよね。この両親の元に生まれてきたってことは、こういう体験をすることを納得してるんだろうし…。
言うべきことは一応言った。でも今、ここにいるメンバーは誰も、私の真意を理解できなさそう…。
そうなると、見守ることに徹するしかないか…」
と、「がんばれー!! おばちゃまは応援しているぞー」と黙って、ボクちゃんの応援に徹することにした。

かくして写真屋さんと赤ちゃんのジャラジャラよしよしわんわん攻防戦は30分近く続いただろうか…(つ、辛い…)。
結局、あきらめて写真屋さんが写真を撮ることに集中して一瞬静かになった隙に、ボクちゃんはぴたりと泣きやんだ! (だから最初から言ったのに…笑)
でも、写真屋さんが欲を出して、「もっといい表情で」とまた、ジャラジャラを鳴らした途端に泣き叫び始めた(ほんっっとに、学習しないヤツ…笑)

でもでも、もっと驚いたのは、
「大変だったけれど、これも大人になるための試練よね。これで無事お宮参りも済んだから、きっと健康に育つわよ」
という言葉…。

いやあ…。健康になるどころか、神社に行って、厄をもらってきちゃうんじゃない? デリケートな子が、こんな苦難を何度も味わわされたら、引きこもりになっちゃうよと、商売柄、思ってしまった。

でも今回のことで、「普通の人」は、「生まれたばかりの赤ちゃんにもいろいろな性格があって、泣くことでちゃんと意思表明をしている」ってことが、本当に理解できないんだとつくづく思い知らされた。

ついでに、「みんな行くから」という現実がどういうことかを垣間見た気がする。
今回の「みんな行く」は「神社」だったけれど、これが「幼児教室」だったり、「小学校」「中学校」「高校」「大学」だったりするんだろう。
いやー…子供稼業も楽じゃない…。
これからもがんばって生きていけよー、ボクちゃん。
どうにもならなくなったら、おばちゃまに助けを求めるんだぞーー!

ところで、うちに帰ってきて、これこれしかじか…と事の次第を、今回不参加だった妹に話したら、
「おお! その状況で、写真屋とケンカしないで帰ってきたなんて、純子偉いじゃん!」
と褒められた!?
いかに、普段ケンカっ早いかってことよね(笑)。
まあでも、自分でもよく我慢して見守れたなあと思う。

でも、今回の体験で、
「もし、本当に守護霊さんっていうのがいるとしたら、本当に忍耐強くて偉いよなー」
なんてつくづく思った。
もし私が誰かの守護霊だったら、
「あー、バカバカ、またこの間と同じ失敗しちゃって…。せっかく、あの人がアドバイスしてくれたのに、「自分は関係ない」って思ってるからこうなるんじゃん! 
あーーー、またそんなことにハマる…。
…ったく、見てられないったら、ありゃしない…。もう、心臓に悪いから、あなたの守護霊はやめるー!」
とか言って、絶対ギャーギャー騒ぎそう…。

ちなみに、どうせ守護につくなら、やはり面白くて興味深くて、なおかつ、共鳴できる人がいいなあ…なんて思う。

そんな風に考えると、守護霊さんがいるとしたら、それって自助グループとか、仲良しグループみたいなもんかもね(見えないと、勝手にいろいろ想像できて楽しいわ)。
「この人、面白い人生生きてるわ。私も一度体験してみたかったのよね、こういう人生。それに、この人は私が生きていた時に失敗した課題にチャレンジするみたいだし、応援してもいいかも」
なんて、サッカーや野球の応援よろしく、後ろでヤジ飛ばしながらサポートしてるのかも…。

ちなみに、「自分の成長と共に、守護霊さんは交代する」なんて聞くと、一般ピープルはものすごく恐れ多いことが起こるような気がしてしまうけど、なんてことはない、自分の興味が変わったり、成長して学校が変わったりすれば、「仲良しグループ」も変わる…っていうのと、同じ感覚かもね。
あるいは、「監督が変わって、チームの雰囲気が変わったから、サポーターやーめた!」みたいな感覚?

そして、応援に飽きてくると、「やっぱり、私ももう一回生まれて、いろいろな体験を味わってみたーい!」とかいって、この世に生まれてきたりするのかもねー。
23 : 49 : 14 | ひとりごと | page top↑
人生の創造
2007 / 12 / 02 ( Sun )
 スピリチュアル系とか、ニューエイジ系の本にはよく、
「自分の人生(現実)は、すべて自分自身が創りだしたもの。「現実」は夢と同じくらい自由に自ら創造することができる。
 ならば、なぜ多くの人は望み通りの現実を生きられないのか?
なぜなら多くの場合、顕在意識より潜在意識の方が強いため、「顕在意識が望む人生」ではなく、潜在意識が創りだした「現実」を生きることになってしまうから。
 私たちは、実は「現実」に振り回されて生きているのではなく、自分の「潜在意識」に振り回されている。
 望み通りの人生を生きたければ、しっかり自分自身の「潜在意識」と向き合い、自分の心を整理整頓することが肝心」
 というようなことがよく書かれている。

 理屈としてはずっと以前から知っていたことだけれど、心のどこかで、「これって本当かなあ。結構眉唾だったりして…」と不信の思いがぬぐいきれないでいた。

 最近になって、ようやく「なるほどー! これって、ほんとにほんとだったんだ!」と体験的に納得できるようになってきた。
 何事も理屈として知っているのと、体験的に納得できるのは違うものだ。

 この理屈が納得できると、なんだか「人生」という推理小説の結末を読んだ気になる。結末を知ってから、もう一回人生を見直すと、
「なーんだ、なーんだ、そういうことかー!! ここにこういう伏線があって、こういう出来事が起こったんだ! なんで気づかなかったのかなー、すっごい悔しい!!」
 とか思う。
 ついでに、他人の人生を見ていて、
「この先の展開は、こうかも…」
 とある程度予測もつく。

 でも、推理小説の結末を最初から知っていることほどつまらないことはない。スリルとサスペンスのわくわく感や楽しみは半減してしまう!
同じように、人生も結末がわかってしまったら、とってもつまらない。だから、多くの人は、人生の真理を最後の最後までわからないふりをしているのかもしれない。

 ちなみに、カウンセリングとか占いなどには、「人生ゲームの攻略本」に近い役割があるようにも思う。
 ゲームで行き詰った時に、攻略本のヒントを読むことで、
 「なるほど…この辺に解決のカギが隠されているのか。よしよし、もう一踏ん張りできるぞ」
 と新たな展開が期待できる。
 人生も、結末がわかってしまったらつまらないけれど、ちょっと煮詰まった時には「人生ゲームの攻略ヒント」があると助かったりするもんだ。

 ところが、いざカウンセリングをする立場に立ってみると、相手によってはどうしても「ヒント」を出せない状態になることが多々ある。
「この人の人生、このままだと大変なことになる。こっちの道の方が楽でいいのに…」
 と先が見えているのに、どうにも相手に伝えることができない。
 無理に話そうとすると、ややこしいことになるか、絶対に邪魔が入る。

 こういう時というのは、もしかすると、その人の潜在意識みたいなものが、
「そこは自分でやりたいから、ヒントを出さないで!」
 というエネルギーを発しているか、あるいはその人の守護霊さんみたいな人が、
「そこは、この人の人生のハイライト体験だから、絶対本人一人でクリアさせて下さい。ヒントは無用です」
とか言ってたりするのかなあー、なんて思う。

 逆に、絶対本人が知った方がいいヒントがある時には、
 「ねえねえ、守護霊さん。何か伝えたいことある?」
 と、心の中で相手の守護霊さんに話しかけるフリをすると、必ず何かヒントが落ちてくる(…でも、私自身は「守護霊さん」が見えるわけでも、声が聞こえるわけでもないんだけどね。「いると信じているフリ」をするだけでも、必ずヒントが落ちてくるもんなんだ、これが…。とっても便利よ)

 ただ、親しい人が困難な状態、危険な状態に陥っている時に、どうにもアドバイスできない状況になるのはちょっと辛い。

でも、ある人がこんなことを言っていた。
「命がかかっているようなギリギリの遊びが、スリル満点で面白いんですよね」
 たぶん、人生も同じなんだろう。本人が潜在意識のどこかで「人生のスリルを味わいたい」と思って体験している現実を奪っちゃいけないんだろうな…とも思う。
 
ところで、人生ゲームのしくみがわかった後は、今度は自分が新しいゲームを創る側に回るという楽しみ方もある。
 「今度はこんなアトラクションを作ってみよう! うんうん、期待通りの出来上がりだ!
 あ、でも、ここはもうちょっとスリルとサスペンスと華やかさを盛り込んだ方が面白いかな? じゃあ、こんな風に変えてみよう!」
 なんて感じ? 
 結末がわかっているのはつまらないかもしれないけれど、いかに自分のイメージ通りのものを作って、それ以上の結果が楽しめるかを体験するのも悪くない。

 ちなみに「天国では、なんでも自分の望む通りの生活が創れる」とか…。
 でも、案外「なんでも自分の思う通りになる」のはつまらないかもしれない。
自分の思い通りになることに飽きた魂が、「ままならない生活」を楽しもうと思ってやってきたのが「この世」だったりするのかもね。

 でも、あまりにも「ままならない生活」が大変な時には、「どうしてもこうしたい」と思う部分は自分の思い通りに創って、それ以外の部分は「サプライズあり」という人生を創るのも一つだよなあ…なんて思う。

 うーん、人生というのは、実に奥深くて面白い!
17 : 29 : 45 | 心とからだ | page top↑
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