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視点を変える
2008 / 02 / 27 ( Wed )
 「引き寄せの法則」とか「欲しいものを引き寄せるコツ」とかいう題名の本が売れているようだ。「引き寄せ」という題名の本を見る度に、
 「引き寄せる…って言葉を使うと、「私はそれを持ってません。欲しいものは私から離れた所にあります」と、無意識で公言したようなものだ。
パワーの少ない人なら「引き寄せよう」でも実現できるけれど、パワーが大きい人は「引き寄せたい」と思えば思うほど、むしろどんどん離れていくよなあ…。
本によっては、「引き寄せたいという思いを手放し、手に入れた時の実感や感動を想像しましょう」と教えているのだろう。でも、家でも、車でも、地位でも、配偶者でも「しっかり手に入れたもの」は感動を通り越して、色褪せた日常になってしまうのが通常。
それに、欲しいものは、手に入れられる運命にあるなら、努力しなくったって手に入るんだけど…」
 なんて矛盾をいつも感じていた。

 でも、最近では、
「持ってないものを「引き寄せて、手に入れる」というのは、とても楽しいゲームなんだな」
 と思う。
あの手この手を使って、苦労して苦労して、やっとの思いで手に入れたものほど、貴重でありがたくて大切なものに感じる。
 たとえば、イチゴは、春になれば苦労しなくてもたくさん実る。でも、冬にイチゴを食べたかったら、ハウス栽培で手塩にかけて、とてつもない労力をかけなければいけない。でも、苦労した分、「クリスマスにイチゴが食べられるなんて、いい時代に生まれたわ」と思えたりする。
それと同じで、もしかすると人は、
 「こんなに苦労して手に入れた! 手にした時の実感はそりゃあ感動ものだったわ!」
 という感動を味わいたくて、時期を待てば簡単に手に入るものを、大変な思いをして手に入れようとするのかもしれないなあ…と思う。
 つまり、案外、「苦労」とか、「持ってない」とか、「大変」っていうのは、楽しいものなのかもしれない。
…と、ほんのちょっと視点を変えると、世界はかなり違って見えてくる。

 視点を変える…といえば、先日、こんなことを感じた。
 よく、
「よりよい人間関係は、相手のことをよく理解することから。相手を理解するためには、相手についてよく知ること」
というけれど…。

もしかすると、「相手そのもの」を見つめるよりも、「相手は何を見ているのか」と一緒に同じものを見つめて、同じ感覚、同じ感動、同じ喜びを共有する方がずっとずっと「お互いを理解し合った」ことになるのかもしれない。
案外、私たちは「相手のことを理解したい」「自分のことを理解してもらいたい」と思うあまり、お互いを見つめ過ぎ、求め過ぎて、息苦しくなってしまうのかも…。
そんな時には、ちょっと視線を外して、咲きほこる花々や沈む夕日を一緒に眺めてみると気持ちがいいかもね。

ほんのちょっと視点を変える…。でも、案外それが難しいんだよねー。
 
 話は変わって…。

 谷村新司のソロモン流を見た。
 彼も「天から落ちてくるもの」とか「自分の中に湧いてくる感覚」などに動かされて生きている人なんだなあと思った。

 谷村さんは「昴」という曲を書いた当時、「なぜ『さらば昴よ』なんだろう?」と思っていたそうだ。そして、何年もたった今になって、その理由がわかったとか。
 「昴」というのは「極まった物、極まった時代」の象徴なのだそう。
頂点を極めたものにずっとすがっていると、それに捉われて身動きができなくなり発展性がなくなる。だから、「物事が極まった時」はそれを潔くすべて捨てて、「ゼロ」「からっぽ」になって歩きだす勇気が必要…と歌った曲が「昴」なのだとか。
 
その言葉通り、谷村さんはアリスが頂点を極めた時に解散し、自身のソロ活動が極まった時には事務所をすべてたたんで完全にゼロに戻ったのだそうだ。
 そして、空っぽになった時初めて、「ゼロになっていなければ受けることはできなかった仕事」が舞い込んできた。以来(?!)、
 「これから何をやればいいのかは、自分が考えなくても「縁」が運んできてくれる。それが自分の「天命」だ」
 と流れに完全に身を任して過ごしておられるようだ。

 とても共感する所が大きかった。
 私も「僕が僕に還る旅」の本を書いておきながら、
「この物語は、なぜここで終わっているのだろう。でも、こういう流れの話で、こう終わるしかないんだよね…」
 とずっと思っていた。最近になって初めて、
「あの物語は「十牛図」(中国の人生哲学の絵)になっているんだ! だから、あれはあれで完成したものなんだ」
 とはっと気がついた。

 考えてみれば、今まで書いてきたどの本も、それぞれのテーマとして私の中では完全に「極まった形」になっている。だから、「似たようなテーマでもう一冊書きませんか」と言われても、ガンとして断ってきた。
それは私なりの「極まったものは潔く捨てて終わりにしていく」という形だったような気がする。

仕事も人間関係も文明も、「極まる時」というのがある。
それは必ずしも、その道の頂点に達する時ばかりではなく、「このアイテムがゲットできれば、私の人生にこの道はいらない」とか、「この道では先行きが寸づまりになる」と道半ばで極まる時もある。
いずれにしても「極まった」という感覚を無視して、「道」にしがみついていると、身動きできなくなるばかりでなく、そのうち崩壊が起こって強制的に「ゼロ」にさせられてしまう。強制的にゼロになると、心と体の痛手はかなり大きい。歩きだすのに相当の労力がいるし、場合によっては立ち直るのが難しいことすらある。

だから、そうなる前に「道は極まったな」と思ったら、さっと、今まで得たもののすべてを潔く捨てられる勇気が必要だ。そうすれば、空っぽになったところに、すっと新しいものが降りてきて、うまく切り替えられる。
ゼロとか空は、実は「無」ではなく「すべて」である、一番力強いパワーを秘めた状態だ。

…とはわかっていても、実際に、得てきたものが大きければ大きいほど、一切合財全部捨てるには相当の勇気がいる。
谷村さんはさらっと「事務所もたたんで、1年間仕事をすべてゼロにした」と語っておられたが、相当の勇気と自分の中の感覚を信じる強さがなければできなかったことだろう。
すごい生き方をしている人だと、あらためて思った。

テーマ:モノの見方、考え方。 - ジャンル:心と身体

22 : 36 : 04 | 心とからだ | page top↑
さまざまな言語
2008 / 02 / 24 ( Sun )
 この間、ひまわりに来られた人と話をしていて、しみじみ、
「絵画や音楽や舞踊や数字って、一つの言語でもあるんだな。普通の言葉を使ってコミュニケーションを図るよりも、絵や音楽や踊りや数字を使った方が心を伝えやすい時ってあるんだ。言葉のせいで、かえって心が伝わりにくくなることもあるんだな」
 と思った。

 今まで学校や社会で、言葉、絵画、音楽、舞踊などを学んできた時、
「いかに、その道の最高で素晴らしい技術を身につけるか。いかに、抜きん出た才能を引き出し、アピールし、認めてもらうか」
 という所に焦点が当たっていた気がする。
でも、もう一度原点に戻って、
「温かい心を相手に伝えるため」
「相手の気持ちをより理解するため」
にさまざまな言語の素晴らしい広がりを学べたらいいなあ…と思う。
 
 たった一つの音、たった一つの手の動き、たった一つの言葉で、心と心が通い合う…。それが言語の原点なんだろうな。
16 : 50 : 25 | ひとりごと | page top↑
過去からのエール
2008 / 02 / 14 ( Thu )
 先週末、KKベストセラーの「家族ががんになったとき真っ先に読む本」が改訂され、ベスト新書「がんになったら真っ先に読む本」として新たに出版された。

 加筆修正作業をしていて、刻一刻と変わりつつある医療事情を痛感した。たぶん、今回修正した最新情報も五年後には古くなるに違いない。十年一昔とはよくいったもんだ。
 なので今回は、時代が移り変わってもあまり変わらないであろう部分に力を入れ、さらに病を患っているご本人が読んでも、心と体に優しい本を…というコンセプトで修正してみた。
 再版でこんなに修正することはまずないので、出版社の人たちは大変だったと思う。でも、お陰で随分「心優しい本」になってくれた気がする。本当によかった。

 また、久しぶりに本を読み直してみて、
「我ながら、よくこんな本を書いたよなー。今の私には絶対に書けない!」
 と痛感した。

 思い返せば、この本に限らず、私の本は自分で書いたというよりは、大きな流れで書かされた感が強い。
 私の場合、文章は天から勝手に降ってくるものをただ、書き留めるだけ…に近いものがある。特に、すごいスピードで言葉が降ってくるときには、パソコンの入力速度が追いつかなくて、
 「きゃー!! ともかく、早く入力していかないと、言葉が飛んで行っちゃう!!」
 と思うこともあるくらい…。

また、それぞれの本を書いている時期には、必ずその本にふさわしい人物との交流があり、ふさわしい出来事が次々と身の回りで起こる。
今思うと、「よくぞ、あの時期、こういうことが次々に起こったものだ。これなくして、この本の完成はあり得なかった」ということだらけだ。

どの本もその時期の私にしか書けないもの。そして、その時期の私しか持っていない「特有の波長」が紡ぎ込まれている。そして、その「特有の波長」こそが、本を必要とする読者にとって重要なのだろう。

確かに、今の私は過去の私よりできることがずっとずっとある。でも、
「あの時代の私にしかできないことがある」
と、今痛感する。たぶん、「過去の私」が本というアイテムを通して、今の人たちにパワーを送ってくれているんだなあと思う。思わず、「過去の私」とその時代に協力してくれたたくさんの人たちに、
「あの時がんばって、本という形にしてくれてありがとう! あなた方の心とエネルギーは、未来まで届いているよ! それは今の私にはできないこと。あの時のあなた方にしかできないことだったね! ありがとう」
と感謝の気持ちを届けたくなった。
18 : 52 : 23 | ひとりごと | page top↑
なぜ「その人生」を選んだの?
2008 / 02 / 08 ( Fri )
 一般の人がよく、
 「あの人みたいにいっぱいお金を持っていたら、あれもこれも買いたい」
 「この人みたいに才能があったら、トップ企業にのし上がるのに」
 「有名人になりたーい」
 と思うのと同じような感覚で、私は、
「この人みたいな面白い人生体験をしたかったー!」
と、他人の人生を羨ましく思うことがある。

 特に何人か、興味をそそられる人生を歩いている人がいる。その人生を見ていると、
「そうそう! それ、私がやりたかったことなのよー! いいなあ!」
と、ものすごーーく羨ましい! そのせいか、
「これって、私が生まれる前に神様が『この時代に生まれるなら、これとあれとそれとこっちの人生の中から一つ選んでね』と候補に挙げてくれた人生なのかな」
なんて思うことも…。
 
でも、その反面、
 「この人生を歩くと、確かにAという素晴らしい体験はできるけれど、代わりに、B、C、D、Eという不幸で辛くて嫌な体験も、もれなく付いてくるんだ!」
 という人生のマイナス面も、とてもよく見える。

 まあ、一般論でいえば、「お金をいっぱい持っていたら、お金目当ての嫌なヤツが群がってくる」とか、「企業トップを常に維持するためには、周りを容赦なく蹴落とさなければならない」とか、「有名人は私生活を暴露、バッシングされやすい」というようなものだ。

 そうした人生のプラス面、マイナス面をよくよく考えて、
 「なぜ、私はあっちの人生を選ばなかったの? なぜ、あの体験をしなかったの? なぜ、こういうイベントを人生の中に盛り込まなかったの?」
 とか、
 「あの人の人生にはなくて、私の人生にあることってなに? もし、別人として生きていたら、私を見て「すごく羨ましい」と思うのはどこ?
今までの人生で、「これだけは手放したくない」と思う体験ってなに?
 Aさん、Bさん、Cさん…、私という人生の選択肢の中で、「この人生」を選んだ「決め手」は?」
 と考えていくと、自分の人生の中で「何が重要で、何はあまり要らないのか」「何が一番大切なのか」がだんだん見えてくる。

 そして、あれこれ考えた末に、
 「私はどうしてもこの体験をしたいから、やっぱりこの人生がいい!」
 と辿り着いた結論は、幼稚園の頃から漠然と感じていた「これが大好き!」に繋がっていた。
 
 三つ子の魂百まで・・ってほんとね。
00 : 06 : 07 | ひとりごと | page top↑
確定申告のシーズン
2008 / 02 / 01 ( Fri )
 今年も確定申告の季節がやってきた。
 今年は下手すると、会計士さんから「ご家族の税金対策のために、扶養家族になられては…」と勧められかねない状況だ。とってもヤバイ!

 それというのも、私の中の「もう一人の私」が、
「えー。今は何となく講演会とかの外向きの仕事をしたくないのー!」
 と頑固に言い張っていたためだ。

 「もう一人の私」は相当曲者だ。
こいつが「何となくやりたくない」といい始めると、たった5分でできる仕事が何日も片付かない。逆に、彼女が「やりたいっ!」というと、24時間どころか、ずっと仕事に集中できるのだけれど…。
 さらに、なにより問題なのは「もう一人の私」が「何となくやりたくない」と言ったことを、「普通はやるべきだよ!」とべき論で無理矢理がんばると、自分も周りの人も悲惨な目に合うということだ。そして、結局最後には、
 「やっぱり、「もう一人の私」が正しかった…」
 と後悔することになる。
そういう苦い経験を、過去に私は何度となく繰り返してきた。
 なので、「もう一人の私」が「何となくやりたくない」と言いだしたときには、素直に従うことにしている。
 
 でもでもでもっ!
 外の仕事が減ったお蔭で、生活費は大幅激減!(「ひまわり」では、私の給料まで稼げない)
それに伴い、趣味、習い事、会食…などは、ほぼ全面ストップ!
今年は大学時代以来の「月一万円生活」に突入した。
 まあ、基本的に「引きこもり系&シンプル生活大好き」な人間なので、「家と職場だけの生活。買い物なし」は苦じゃないんだけど…。
 
それでもやはり、
「せっかくここまで舞える体を作ったのに、習い事をやめたら体がなまっちゃう! 友人たちは皆一生懸命練習して、どんどん前に進んでいるのに…。
それに、もし急にお金が必要になったらどうしよう!」
という焦りがないでもない。

ところが、「もう一人の私」はのほほんとしていて、
「大丈夫、大丈夫! お金が必要な時には、どこからかお金が入ってくるか、やりたくなる仕事が舞い込んでくるって! それに、今はじっとしていることが大事なんだってば!」
と私の不安なんて、一向にお構いなし。
 でもまあ確かに、この生活のお陰でいろいろな発見と体験はいっぱいあった。

 まず第一に、家事を丁寧にこなせるようになったこと。
余裕がない時は、「必要な家事をいかに手早く能率よくこなすか」しか頭になかった。でも、今では「家事を含め、生活のすべては「祈り」だな」と実感できる暮らし方が身に付きつつある。
 また、そうした「新しい習慣」が身に付くまでには、相当のエネルギーと心の余裕が必要だともわかった。仕事と趣味で全力を使いきっている時に、こういう新しい習慣を自力で身につけるのは難しかったと思う。

 また、私にとって「外向きの仕事」は、「人を指導する仕事」という意味合いが強い。でも、もし心の底から、
「人生の答えはその人自身の中にすべてある。共に生きるだけで、人は互いに支え合える」
と思えるなら、「誰かを指導する」必要は全くないと気づいた。むしろ、「指導」という仕事に携わることは、生き方の中で、
「そうはいっても、指導者がいないと前に進めないでしょう?」
と暗に相手に語りかけたことになってしまう。それでは、本末転倒だ。
だから、「もう一人の私」は「外の仕事はしたくない」とストップをかけたのかも…と今では思う。

 また、財政難で習い事をストップしたのもいい経験だった。お陰で、今まで習ったたくさんの舞踊を自由に組み合わせて、自分の体が一番気持ちいい体操を作り始めた。これがいろいろな発見があって、なかなか楽しい!
 「そっかー、「体の芯」と「宇宙の隅々」を深く意識して動けば動くほど、ゆっくりしか動けないんだー。
舞踊を習っている時に「ゆっくり動くのは大変」と思っていたけれど、「できるだけ意識を遠くまで伸ばそう」と思えば、自然に勝手にゆっくりになる。
また、「きれいな曲線を描こう」とするのは難しいけれど、「動きで優しさを表現したい!」と思えば、勝手にきれいな曲線になる!
形だけマネをしようとしていたから、うまくできなかったんだ!
どんなに形をマネしても、本物の「形の心」が理解できていなければ、本物を超えられないのは、そういうことだー」
 としみじみ実感する今日この頃。

 それに、既存の舞踊の枠に捉われずに、それぞれの一番いいところを取り入れて、心と体が感じるまま、その時の自分に一番合った動きを自由気ままに舞えるのは、素人ならではの特権だろう。
 
実は、子供の頃バレエを習いたかったけれど、「もう一人の私」と母が反対して、習えなかった。でも、バレエを習っていたら、多分私は他の舞踊は習わなかっただろう。
バレエを習えなかったおかげで、器械体操、バトントワリング、日舞、ベリーダンス、フラダンス、インド舞踊、バレエ、ヨガ、花架拳、中国舞踊…いろいろ経験できた。
 そしてなにより、お能とフラメンコに出会えたお陰で、人生最高の体験もできた。
 やっぱり、「もう一人の私」のいうことは正しかったなあ、としみじみ思う。

 思い返せば、「もう一人の私」は他にもいろいろなことを主張してきた。
「ひまわり」を開こうといったのも彼女。でも、開設当初は、毎月何十万もの赤字が積み重なって、「本当にやっていけるの?!」と思ったものだ。けれど、「もう一人の私」は「大丈夫、大丈夫!」といっていた。確かに、ちゃんとここまで続けられた。

医者になったのも、「もう一人の私」が「どうしても医者になれ!」といったからだ。私としては、本当は演劇をやりたかったのだけど…。
 でも、今ではこの道を歩いてよかったと思う。
 その理由の一つは、他人の生き方を見て、
「ああ、私が歩きたかった道を歩いてきた人がいる。この人のお陰で、「演劇の道を、一番いい形で歩いたらどうなったのか」を見ることができた」
と思ったからでもある。
同じ道を歩く人は二人もいらない。
そして、私はこの人生を歩いたからこそ、「他人の人生」を自分の人生のように感じる力を得られた。お陰で人の何百倍もの人生を楽しめた気がする。

 結局、「もう一人の私」の勧める道は、その時は理由がわからなくても、未来で必ず「これでよかった」と思える道だった。
 だから、「もう一人の私」が、「何となくこれはやりたくない」「どうしてもこうしたい」というなら、理由はわからなくても、まあ、その意見に従ってみるかと思う。

 ああ、でもっ…!
やっぱり確定申告は心配!
 結局、気弱な私…。
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