究極の幸せ
2008 / 03 / 29 ( Sat )
ターシャ・テューダ展に行ってきた。
展示してあるターシャ愛用の食器、家具、衣類などは、ごくごくありふれたもので、日常の手垢がたっぷり付いている感じ。なんだか、我が家の焦げ付いたフライパン、注ぎ口が欠けた急須、着古した普段着が展示してあるような感覚だ。
でも、その「日常の手垢」から、
「ああ、本当にこの人は、ごくごくありふれた日常を愛し、大切にし、満喫しているんだな」
 と痛感させられた。

 とはいえ、私はターシャのように、草花の手入れをして、料理をして、保存食を作って、手芸をして…というまめな性格ではない。気が向いた時に、似たようなことを猛烈な勢いでやるけれど、習慣化してくると途端に興味が失せる。基本的に、だらだらのんびりしているのが好きなのだ。
 「こんな性格の私が「日常を究極に満喫する」にはどうしたらいいのだろう。ターシャが花や料理を愛しているのと同じくらい、私が愛している日常って何?」
と考えていて、ハタと思い当たった。
 そうだ! 私が好きなのは、「だらだらのんびり」だ!
もっと突き詰めて言えば、「ふとんにくるまって、ゴロゴロしながら、空想している」のが究極に大好きなのだ!
 心理テストなんかでも、「あなたはとてもリラックスして、幸せな気分です。どこにいますか?」と聞かれたら、いつでも迷わず「ふとんの中!」と答える。子供の頃からそう。
 たぶん、子供のころに繰り返し見ていた大好きな夢、「十二単のような着物(?!)を着て、ボーっと庭を眺めている」と、「ふとんにくるまって、ボーっとしている」は感覚が似ているのかもしれない。

 ふわふわの羽根ふとんを体に巻きつけて、ゴロゴロしながら、
「ああ、あの時味わった何ともいえない感覚が楽しくて、気持ちよかったのよねー。愛が溢れてるって、ああいう感覚よねー」
 と過去のささいな幸せ体験をボーっと反芻していると、最高に至福を感じる。放っておいたら、日長一日でも、ボーっとしていられる。
 だから、あまりにもボーっとしていると、「いかんいかん、仕事しなきゃ。食事の支度しなきゃ」と自分に鞭打って、日常に舞い戻っていた。

 でも、ターシャ・テューダ展に行ってからは、
 「ターシャの幸せは、花を育て、絵を描き、物を作ることだけれど、私の究極の幸せは、ふとんの中でゴロゴロなんだ。
 バックも服もおしゃれな家具も欲しいとは思わないし、趣味や仕事もとことんやって、十分満足した。こうしたものは、私の生活の中で一切いらない!
 安心して布団でゴロゴロして、おいしい粗食を食べて、ごくたまにちょっとリッチな(といっても何千円くらいの)外食ができれば、十分幸せ♪
 だったら、それくらいの生活資金(月5万もあれば十分!)を稼いで、日々の生活空間を調えていれば、最高に幸せじゃない!
そのためには、自分自身に、「ふとんにくるまってゴロゴロすることは、自分自身を最高に幸せにする、とっても生産性のあることだよ」って言えればいいだけなんだ!
幸せって、なんて安上がりで、安易なものだったのかしらー。
たったそれだけのことに気づくまでに、これだけの複雑怪奇な人生があったのねえ…」
 なんて思うようになった。

 そればかりか、こんなにゴロゴロ好きならば、将来ボケるのも悪くないかなとも思う。
 日長一日、ひなたぼっこをしながら、最高の思い出ばかりを何度も何度も繰り返し反芻していられるなんて、最高に幸せだ。
もし、
「寝てばかりいたらダメ。リハビリに、食事に、散歩に、手芸に…あれもこれもやりなさい。動かないと大変なことになっちゃうわよ」
なんて言って、私の最高の幸せを無理矢理奪う介護者がいたら、
「イヤーー!! どうして放っておいてくれないのよっ! 私の幸せを取り上げるなんて、鬼!」
って言って、思いっきり暴れて困らせてやろーっと♪
 …なんて考えていると、とっても楽しい。と、同時に、痴呆老人がうとうとしている時、誰よりも幸せそうだったのに、介護者が自分の都合を押し付けた途端に暴れだす気持ちがとってもよくわかった。

 幸せの形は十人十色。本人が幸せなら、それがどんな形でもいいんだよねー♪

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生まれ変わり
2008 / 03 / 26 ( Wed )
 最近、「ひまわり」には、「今までと180度違う人生を歩ける大転換期に来ている人」とが実にたくさんやってくる。
しかも、呆気にとられるくらい、あっさり方向転換して帰っていく。当の本人は「本当に方向転換したの?」と半信半疑かもしれないが、私から見れば、「そこまで方向転換できれば、あっぱれ!」って感じ。
 こういう人たちを見ていると、
 「人生には転換しやすい「時期」っていうのがあるんだな。しかも、その「時期」は周りの事情との兼ね合いで、ドンピシャの「時期」を計画して生まれてきているのかも…。そして、その「時期」を潜在意識はわかっているんだなあ」
 と教えられる気がする。

 それはまさしく、蝶の幼虫が、最初はどんなに「早く蝶になりたい」と努力して脱皮しても「幼虫のまま」なのが、気づいたら蛹になり、何の努力もなく蝶に羽化する…のと似ているかも。さしずめ、私の役割は、
 「あのー、もしもし…。もう幼虫ではなく、蝶になっておられますけど…」
 と伝えるだけ…って感じかな?
 
 また、
「人生って、二部構成になってる人が結構多いのかも…。前半は、前世のハイライトシーンの再体験。後半は、前世の生き方を参考にして、理想の生活をエンジョイする…って感じ?」
などとも思う。

 たとえば、旅行計画のように、魂があの世に戻ってから「次はどんな人生(旅)にしようかな? 」と計画するとしよう。
 旅行計画を練っていると、すでに旅に出たことのある前世の人(魂)たちがやってきて、ワイワイやいのやいのと横から口を挟む。自分たちの豊富な経験を元に、旅(人生ドラマ)の計画を勝手にどんどん壮大なものにしていくのだ。
 「私、こんな大変な体験をしたの! 絶対、それも体験してみて!」
 「えー、私の辛い体験も入れてくれなくちゃ!」
 「自分たちばかり、ずるい! 俺のこの地獄の話も、あの最悪な話も入れてくれよー!」
 「ダメダメ! 人生は短いんだから! 一つの前世につき、盛り込むテーマは一つね! あ、大変な経験が重なると辛すぎるから、一つのクリアするごとに場面転換を入れてね」
 「じゃ、私のハードな武者修行は「高校時代」に入れる!」
「僕の貧乏体験は、最初の「就職時代」にきーめた!」
「えー! 残ってるところがあまりないじゃん! 仕方ないなー。じゃ俺の壮絶ないじめ体験は、「幼稚園時代」に入れるか…」
と欲張った計画を立てる。すると、「次の人生」はすっごい大変で辛い経験のテンコ盛りになる…というわけ?!(うっわー…超恐ろしい辛すぎる人生…)

 こんな風に人生の先輩たちは無責任にどんどん怖楽しい予定を入れるけれど、たまらないのは「次に生まれる人」だ。
「ちょ、ちょっと待ってよ! そんな悲惨な人生ってあり?! 生まれてすぐから、こんな大変な事件が大連発する人生を生きる魂(人?)の身にもなってよ!
あまりに辛くて、自殺するはめになったら、どうしてくれるのよっ! 自分達はもう生まれないから、気楽に好き勝手ばかり言っちゃって!!」
と文句を言っても、先輩たちはへらへら笑ってるだけ。
 「まあまあ、大丈夫だって! 君ならできるよ。うんうん。
それに、大変な時には蔭から手伝ってあげるし、自殺しそうになったら、なんかの方法でちゃんと止めてあげるって!
それに、これだけすごい人生を乗り越えて、幸せになったら、超かっこいいよお?
いよっ! がんばれっ!
見事クリアして帰ってきたら、みんなで大拍手して、花火打ち上げて、ごちそう作ってお祝いしてあげるからさあ!
がんばれがんばれ、やんや、やんや!」
 とかなんとか、お気楽に言いくるめられて、その気になって生まれてきちゃったとか…。(…ほんとに、そんなこと言ったヤツがいたら、あの世に帰ってから、ブッ飛ばしてやるっ!)

 でもま、宗教でいう「カルマ」とか「因果応報」とか「自分が蒔いた問題、積み残した課題が降りかかってくる」…なども、こんな風に「前世の皆さん」が考えた、
「私、こんな大変な人生を歩いたの。あなたも実体験して、共感して、ねぎらってね! そして、一緒に新たな打開策を探して、新しい幸せを探しましょうねっ!」
という「旅の予定表」だと考えると、「ありうるかも…」って思えちゃうし、怖くないから不思議…。

そして、人生の「大転換期」というのは、人生の前半と後半の境目なのかも…。
人生の前半は、数々の「前世さんの人生」の総集編を実体験して、
「そっかー、先輩たちはこんな大変な人生を歩いてきたんだ。本当によくがんばってたね。すごい人生だったと思うよ」
と共感、称賛し、十分参考にするのが目的。そして、人生の後半は、
「先輩のアドバイスによると、こっちの道は歩いても意味がないってことね! わかった! 先輩とは違う人生を歩いて、先輩たちが果たせなかった「究極の理想の幸せな生活」を送るね!」
 と、前世の先輩たちが知恵を振り絞って考え出した「究極の幸せ生活」を実証してみることなのかも…。

 ところが、欲張ってあまりにも大変な体験をテンコ盛りにしてくると、「共感、称賛、参考」にするどころか、道半ばにして、ボロボロになって自殺してしまったり、病気になってゲームオーバーになってしまう…。
 すると、今時のテレビゲームよろしく、
 「あー、また失敗してゲームオーバーになっちゃった! また、一からやり直しだ…」
 と生まれ変わって、同じことを一から繰り返す…のだろう。
 でも、大変な人生ほど、また一から同じことを繰り返すのはゴメン!って感じ。

 それよりは、九死に一生を得る、大病をする、家や財産や職や家族を全部失う…などの「大転換期」の方がましかも…。
実は、「大転換期」には、生まれたての赤ちゃん同様、それまでの人生のごちゃごちゃエネルギーを一度清算できる仕組みもあるみたい。生きながら生まれ変わる…って感じ?
 これって、「大変な人生」を繰り返さないで済む分、死んで生まれ変わるより、案外お得?

 たとえていえば、ボストンバック一つで知らない土地に行って別人として生きることになったとか、記憶喪失になった人…ような感じ?
 
ちなみに、私も人生の大きな転機には何度も何度も、
「よし! 転校(卒業、転職、病気)した後は、別の「私」になる! 同じ「肉体」の器を使っているけれど、「明日からの私」は別人になったつもり。過去を生きていたのは前世の私。だから、過去は一切忘れたふりをして、「違う私」「理想の私」になったつもりで生きてみよう」
 と思ったものだ。
それでも、過去の記憶に引きずられて、「困った癖」や「失敗」することがある。そんな時には、
「古い「器(肉体)」に残っている癖が出ただけ。新しい生き方が板についたら、こういう癖は出なくなるから!」
と、自分に言い聞かせた。
今思うと、これって案外いい方法だったかもしれない。

 ところで、話は少し飛ぶけど、パソコンのバーチャルリアリティの世界って、あの世とこの世の関係に似ているなあと思う。
バーチャル世界で「自分の分身」が理想の生活を送ることで満足する人たちを見ていると、
 「きっと、「あの世」にいる人(魂)たちは、こういう感覚で「この世」に「自分の分身」を送り込んでいるのかも…。
 バーチャル世界の「分身」が幸せになると、パソコンの前に座っている「自分」も幸せになるように、「この世の自分」が理想通りの幸せな生活を送ると、あの世で応援している「自分の仲間たち」も幸せな気分になるんだろうな。
 でも、バーチャルの世界でも、相手がある以上理想通りに動かないことも多いように、前世の人々が知恵を振り絞って考えた「理想の生活」も、案外予想通りにはいかない…ってこともあるのかもね」
 なんて思う。

 でもまあ、煮詰まった時、転機に来た時、飛躍したい時、方向転換したい時などは、
 「もし、今、事故で記憶を全部無くして、今の「肉体」の中で新しく目覚めたとしたら、どんな性格の人間になって、どんな生活をしたいか?」
 …なあんて、考えてみるのも楽しいかもね。

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カマキリの宿命
2008 / 03 / 14 ( Fri )
この間、「アリとキリギリス」の話を書いたけれど、最近、
「そっかー! 世の中には「カマキリ」のような「宿命」を持って生まれる人もいるんだー」
と、納得するような場面に遭遇した。

「交尾が終わったらオスを食べてしまうなんて、カマキリって残酷な生き物だ」
と思っていたけれど、立派に子孫を残していくためには、カマキリはカマキリらしく生きることが重要だ。カマキリに生まれたのに、
「仲間を食べるなんて、そんな残酷な生き方、私にはできない…ううっ」
なんてさめざめ泣いて、悩み苦しんでいたら、カマキリは「子孫を残す」という生物としての大切な役目が全うできないばかりか、自分の人生すら全うできない。
カマキリに生まれたら、仲間を食べることも食べられることも、「宿命」(仏教でいえば「縁」ってやつ?)と考えて、カマキリらしく生きることが大事。

同じように、人も「とことん利用する」とか「とことん傷つけ合う」という「宿命」とか「縁」で出会ってしまうことって、悲しいけれどあるんだあ、としみじみ思う。
「カマキリ」の宿命を背負って生まれた人に、
「アリのように立派に生きなさい。それができないなら、感謝できるキリギリスになりなさい」
と諭しても無理。それよりは、
「ともかく、なんとしても生きて、生きて、生き延びていきなさい! そのためには、あなたの場合、とことん利用できるものを利用し尽くしていいんです! 誰がなんと言っても「これが私の人生、宿命なんだから、これでいい! 」と、堂々と胸を張って、歩いて行きなさい! あなたらしく生きることを応援しています!」
と、宿命のままに後押ししてあげた方が前に進みやすいんだなあと、つくづく思う。

そして、こうした人たちも、ぐちゃぐちゃ、ドロドロ、しっちゃかめっちゃかに歩いた最後に、ふと気付くと、
「ああ、いろいろな人に助けられた人生だったんだなあ。ありがとう」
と感謝の一言も言えるかもしれない。それが「最高の人生」…っていうのも、ありなんだと、カマキリから教えられた気分。
立派に生きるばかりが人生じゃない。本当に「人生いろいろ」なのね。

ところで、教えられるといえば、HPを読んで下さった「ひまわりメイト」の方が、
「ブログの引き寄せの話は、『そうそう!』と思いました! 否定形で祈ろうが、肯定形で祈ろうが、祈るまいが関係ない! 人間のパワーをなめちゃいけない! 人生にはそんな法則を越えたパワーがありますよね!!」
とおっしゃっておられた。さすが、ひまわりメイトの皆さんは一味違う!

それでもまあ、「引き寄せの法則」も大いに結構!
どうせやるなら、「その時の自分」に一番ぴったりの方法を選べるといいかもね。

たとえば、「絶対これを手に入れてやる!!」と赤い炎をメラメラ出している時に、「一番効果的な方法と、本に書いてあったから」という理由で、無理矢理「物事は自然に叶う」と淡々と言おうとするのはかえって不自然。それよりは、欲望のエネルギーのまま、「絶対にゲット!!」と突っ走った方がとっても素直で、その人らしくて、目的に早く近づく気がする。

たとえていえば、渋谷のマンバギャルが、「良縁に巡り合うためには、茶の湯の作法の一つも身につけることです」と言われて、国宝級庭園の茶の湯の席に無理矢理座るようなもんだ。マンバギャルにとって、一番心が通い合う相手と出会える可能性は、渋谷を闊歩していた方が高い。
でも、さんざん渋谷を闊歩しまくって、
「素顔に戻りたいな。古き日本の良さを学ぶのもかっこいいかも」
と思った時には、茶の湯の席の方が、いい縁に巡り合えるかも…。
そして、案外、人生が終わるころには、「良縁」なんてどうでもよくなっていて、
「渋谷も闊歩したし、古き良き日本も味わったし、私の人生波乱万丈で超かっこよくて、素敵で楽しかったかも♪ 実は、こういう充実した人生を歩くのが目的だったのかも…」
と思っているかもしれない?!

大事なのは、マニュアルじゃなく、いかに、その時の自分らしい方法でその時の目的に向かっているかってことかもねー。

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23 : 03 : 26 | ひとりごと | page top↑
アリとキリギリス
2008 / 03 / 05 ( Wed )
 確定申告が無事終了。
 予想通り、扶養家族になってしまった…。
医者やってて扶養家族になるなんて、なかなかできることじゃない。ちょっと自慢できるって感じ?! ちなみに、おばさま友達に、
 「ついに、扶養家族になってしまいました」
 と話したら、
 「あら。家族の税金対策に貢献できたのね。それはよかったこと! 実際の生活面で、扶養になってるわけじゃないんでしょ? なら、いいじゃない。税金対策は重要よ!」
 とニッコリ笑顔で返して下さった。さすが、おばさま! なんて心強いお言葉!

ところで、会計事務所からの帰り道、同じく扶養家族になっている妹がこう呟いた。
「でもっ! 私、アリとキリギリスのアリにはなりたくないっ!
働くばかりで、何も遊ばず、楽しいことをしないうちに死んじゃったら、絶対後悔するもん!」
あんまり悲愴な声でキッパリ言うものだから、思わずマジな顔で答えた。
「え。違うよ。アリとキリギリスの話は、『ちゃんと働かないと、冬になってから困る。冬の分の食料を確保したアリは偉い』って話じゃなくて、『夏に遊び暮らしていても、周りにタカれる人がいれば、冬も生きていける』って話だよ」
二人で一瞬見つめ合ってから、大爆笑!

でも、商売柄いろいろな人を見てきたからこそ、断言できる!
生活保護、障害者年金などの社会保障はもとより、NPO団体や公共施設の保護を受けて住居をタダでゲットしたり、出会い系サイトやバーやクラブをうまく利用して安全な共同生活者やパトロンをゲットしたり…。お金がなくても、生活するすべがなくても、働かなくても、人間生きていこうと思ったら、生きていける! …と、たくさんの人々の突拍子もない生き方から、随分教わった。それに、
「世の中には案外、「困っている人に、親切にしたい」と思っている優しいアリさんはいっぱいいるんだなあ。いい世の中じゃん」
とも思う。
だから、へんなプライドは捨てて、
「なんてすばらしい優しいアリさんなんでしょう! あなたのおかげで助かりました!」
と、心から感謝できるキリギリスさんになれれば、童話のように、アリさんもキリギリスさんも幸せな冬を過ごせるってもんだ?!

…というのは、あまりにも極端な話だけど、アリとキリギリスの話も「事実」だけをみたら、「キリギリスは冬にアリからごちそうを分けてもらい、お礼に音楽を奏でた」というだけ。その「事実」をどう解釈するかは本人次第。

「キリギリスは、実は素晴らしい音楽家。夏の間は自給自足をしながら、音楽の自己鍛錬に励んでいる。冬になると、農繁期には忙しかったアリさんたちも余裕が出てくる。お金持ちのアリさんは、稼いだお金で音楽家のキリギリスさんを招待し、共に優雅で楽しい冬を過ごしている」
 と考えてもいいし、あるいは、
「アリさんは素晴らしいコレクター。夏の間に、びっくりするような食料を集めるのが大好き。「こんなもの見つけた! あ、あれも面白いかも!」と、ひたすら集めることそのものがものすごく楽しい。その結果、食べきれないほどの食料が溜まってしまい、もったいない。そこで、「うわー、すごいね。こんなものも集めたんだ!」と一緒に感動してくれる感動上手、感謝上手なキリギリスさんをいつも冬に招待する」
という考え方も…。

もっと現実的な解釈としては、
「必要以上にお金を溜めても、他人に使われてしまうだけ。子孫に美田を残さず! 稼いだものは、全部自分で使い切ることが大事!」
なんていうのもあり?!

要は、アリだろうが、キリギリスだろうが、自分らしく納得のいく生き方をして、どんな勝手な解釈でもいいから、自分なりに、
「私の人生、こういう意味があるから、これでいいの」
と言えればいいんだと思う。
アリとキリギリスの話も、この年になって、考え直してみると奥が深い?!

でも、妹曰く。
「そんなことを教えられた子供が、学校に行って『ママは、アリとキリギリスの話は解釈次第でいろいろ変わる、人生なんてそんなもんだって言ったもーん』とか言ったら、先生から超嫌われそうだよねー」
確かに!
でも、もしそれで子供が「学校の先生は、ママと違うことを言ったよ!」と言ってきたら、こう教えてやろう。
「大人だって間違うことがあるのよ。もしかすると、ママや先生の言ったこと、どっちも違ってるかもよー。
だから、たとえ、どんなに偉い人が何を言っても、あなたの人生にとって何が一番正しいかは、あなた自身が決めなさい! 」
きっと、子供はさらに学校で、先生がもっと困ることを言いだすに違いない!
それって、すっごく面白楽しいか

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