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未知の世界
2008 / 06 / 23 ( Mon )
 一時期、某舞踊団の研究所に出入りしていたことがある。
 同期の友人たちは今、準舞踊団員として活躍しているから、私もあのまま残っていたら、医者兼舞踊家になっていたかもしれない。たまに、ちょっと寂しい気持ちや惜しい気持ちが心をよぎることもある。

 でも、残らなかったのは、
「舞踊の世界も、大学病院も、会社も似たものなのね。
 トップが「黒」と言ったら、「ははーっ! その通り、黒でございます」と言える適応性がないと、生き残っておいしいポストには就けない。
大きな組織社会って、みんな似たものなのかも…」
と思ったからだ。

 ところで、大きな組織社会には、必ず負け組、いじめられ組の人々がいた。
 「無理してこの世界にいなくても…。もっと自分に合う世界に出て、自分らしく伸び伸び生きればいいのに…」
 と私は思っていたのだが、ほとんどの人は、
「うちのドンはこの業界の有力者だから、ここから出て外で芽が出ても、妨害に合って潰されるわよ。逆に才能もないのに、ここ以外で食べていくには、今以上の苦労をする。辛酸を舐めて、後悔するくらいなら、ここで我慢した方がましよ」
 という「親切な?忠告」に屈して、身動きが取れないまま、スケープゴートの役で一生を終わってしまうようだった。

確かに、なにかのチャンスで外に出た人も、さんざん刷り込まれた「いじめられ役体質」が抜けきらないためか、あるいは「外に出たら不幸になる」という暗示にかかってか、新しい場所でも知らず知らずのうちに「いじめられ役」を演じてしまうことが多いようだった。
 そして、どこに行っても、繰り返し「いじめられ役」を演じることで、
「社会というものはどこも冷たく、厳しいものだ」
 と世の中すべてに「最悪のレッテル」を貼ってしまう…。そして、
「どこに行っても同じなら、なんで最初の所で踏ん張らなかったのだろう」
と後悔し、元の仲間に、
「世の中、どこも同じ。今の集団を出ると後悔するよ」
とグチを漏らすようになる。その結果、元の仲間は、
「やはり、外に出たら不幸になるんだ」
と納得する…。
 これって、とっても不幸な連鎖だ…と思う。

 ちなみに、私は折々にいろいろな集団から、何度も何度も飛び出したアウトローだ。
 集団から出ようと決意するたびに、いろいろな人から、
「ここから出たら、絶対後悔する! 絶対不幸になる。もう少し踏ん張ったら? あなたには我慢や忍耐というものが足りない」
とありがたい忠告をいつもいつも飽きるほどたくさん頂いた。

 でも、集団から出る度に、自由で気楽で伸び伸びして、一歩一歩本当の自分らしい生き方に近づけた。そして、新しい世界に入る度に、
 「そうか、こんなステキな社会もあるのか。こんな素晴らしい世の中の見方もあるのか。こんな生き方もあったのか!」
 と目から鱗の楽しい体験もできた。

 今思うと「親切な忠告」に耳を貸さず、自分の気持ちや直感を信じて、道なき道を進んできてよかったなあと思う。

 未知の世界に一歩踏み出すのは勇気がいる。
でも、今いる場所に違和感や限界を感じるなら、「親切な忠告」には耳を貸さず、勇気を出して新しい世界に飛び込んでみるのも一つだ。
「親切な忠告」をしてくれる人たちのほとんどは、未知の世界を見たことがない。ならば、未知の世界が本当に「不幸で、怖くて、大変なところ」かどうか、その人たちにはわからないはず。

 また、せっかく新しい世界に飛び出すなら、
「ここもまた同じようにひどい所かもしれない…」
という色眼鏡を横に置いて、
「もしかしたら、今までとは違う、新しい世界を発見できるかもしれない。ううん、絶対見つけて見せる!」
と思って、外に出たいものだ。

そうすると、きっと新しい世界が目の前に開けてくる。
18 : 16 : 35 | ひとりごと | page top↑
世界と愚者
2008 / 06 / 16 ( Mon )
 占いのタロットカードで、一番大きな数字は「21」、「世界」という名がついている。文字通り、世界中のすべてを包括し、理解し、悟った最強のカードとされている。
 でも、一流の占い師に言わせると、
「最強のカードは、「世界」ではなく、「愚者」の「0」のカード」
 なのだとか。

 「愚者」は「何も考えていない愚か者」ではなく、「世界のすべてを知った上で、あえて必要最低限の身の回りの品だけを持って、自由気ままに放浪している者」であり、「ゼロはすべてを含んでいて、なおかつ、すべてから自由な数字」なんだとか。

 「すべてを持つ」のは一見、とても豊かで幸せそうに見える。でも、それって本当に豊かで、幸せなんだろうか?

 欲しいものを次々に買って、部屋が品物でいっぱいになったら、かえって快適な生活スペースがなくなってしまう。溢れ返った荷物の山の下には、ゴミ同然のものもたくさんあるに違いない。宝物も山になってしまうと、どれが一番大切でどれはあまりいらないのかを選り分けるのさえ大変だ。

 逆に、マザー・テレサのように、
「私に必要なものは、修道服と聖書とロザリオだけ。その日に必要な糧はすべて神が与えてくださる」
 と信じていれば、自分の持ち物はシンプルでありながら、なおかつ世界のすべてのものを手にすることになる。
 それって、もしかすると最高に自由で、楽で、豊か?

 「世界のすべて手にする」ということは、実は「最高の富」ばかりでなく、「凄惨な事件」や「悲惨な災害」や「絶対嫌なこと」をも手にすることになる(だって、「すべて」を手にするのだから)。
 だから、「すべて」で、「全体」でもある「神」って、案外不幸かも?!
 それよりは、「部分」で、「嫌なものは嫌」と拒否でき、必要なものだけを持てる「人」の方がもしかすると幸せかもしれない。

 せっかく「部分」である「人」として生きるなら、それを有効活用して、自分の好きなものだけで人生を満たす方がいい。
 でも、マザー・テレサにとって必須アイテムだった「修道服、聖書、ロザリオ」が、万人にとって必要とは限らない。

 小説家にとって必要なものは「想像力」かもしれないし、鉄道オタクに必要なのは「電車」で、さかなクンに必要なのは「魚」で、弁慶に必要なのは「主君と忠義」、静御前に必要なのは「義経と舞」、義経に必要なのは「兄頼朝」、頼朝に必要なのは「天下」…かもしれない。

 でも、案外、普通の人にとって、
 「何が自分の人生にとって、一番大切か」
 は、とてもわかりにくい。

 だから、いろいろな体験をして、「世界」のあらゆるものを、手にしては、手放し、手にしては手放し…と繰り返す中で、ふるいにかけられ、切磋琢磨され、最後の最後にどうしても手放せなかったもの…自分の中に残ったものが、自分にとって一番大切なものなのだろう。

 でもまあ、ディズニーランドに行っても、たいがいの人はパークを歩くだけで満足せず、アトラクションを片っ端から体験しまくって、たくさんの土産物を買う。
「ディズニーランドで、何が一番面白かった?」
 と聞いたら、
「あれも、これも、怖いのも、ファンタジーなのも全部! 一番なんて、決められない! 」
 と答える人の方が多いに違いない。
…ってことは、だいたいの人は良いも悪いも欲張った人生を歩きたがるものなのかもね。
23 : 00 : 02 | ひとりごと | page top↑
人生に○をつける勇気
2008 / 06 / 08 ( Sun )
「あなたの人生、本当にそれでいいの?」
と問われるのは、結構きつい時もあるけれど、節目節目で人生を振り返るには、いいチャンスだと思う。

「それでいいの?」と問われた時、たいがいは、
「みんなはこうしている。あの人が正しいといった。社会的にはこれが正しい。宗教的、人間的にはこう生きるべき」
などといった「周りの評価」や「社会のルール」や「先人たちの知恵」を拠り所にして、○か×か判断することが多い。

 確かに、自分の人生の物差しを持たない時は、そうした周りの判断基準はとても参考になる。
 でも、「周りのもの」は時代の移り変わりとともに、多様な形で変化していくもの。そのことに気づかず、無意識に「自分の人生の拠り所」の基準を「外」に求めてしまうと、
 「私の人生、なんでこんなに不安定で、周りに振り回されているんだろう」
 と言いながら、一生が終わってしまうこともありうる。

 もし、「流れ(周り)に振り回される人生は嫌だ」と思うならば、
「自分の人生は、自分が決める! 誰がなんと言おうと、自分の心が動くものを大切に生きる!何があっても、自分が歩いた道に○をつける」
 と腹をくくる覚悟が必要だ。

 そして、誰が評価してくれなくても、たとえ思うような結果に辿り着けなくても、
「それでも、私は歩いてきた道のりそのものが楽しかったから、私の人生は○。
お花畑だけでなく、山あり、谷あり、絶壁断崖ありだったけど、すべてひっくるめて、自分の人生全部が愛しいし、ステキだと思う。「私」、よくがんばったね」
 と言い切れるくらい、自分の足で立ち、自分の心を拠り所にできる勇気が必要だ。
 それって、人によっては相当苦しいことかもしれない。

 それだけの覚悟や勇気が持てない時には、
「人生うまくいかなかったら、「周りが悪い。社会が悪い。先人の教えが間違っていた」と、「外」のせいにした方が、今は楽かも…。だから、「外」を拠り所に選ぼう」
と考えるとか、
「周りの変化に合わせて、どこまで流されて行けるのか、どこに辿り着くのか、それが私の人生にとっての最高の楽しみであり生き方」
 と考えて、意識して拠り所を「外」に持つ人生を選ぶのも一興。
そうすれば、無意識に流されるまま「外」を拠り所にするより、少しは楽かもしれない。

 でも、正直言うと私は、上記のような理屈をあれこれ考えずに生きている人がうらやましい。特に、
 「自分の心の動くまま、素直に行動し、自分の行動に何の疑問も持たない人」
 が心底うらやましい。

 自然の心から出た素直で真直ぐな行動を目の当たりにすると、
「自分らしく心のままに生きるって、本当はものすごく自然で、ふんわりしていて、心強くて、周りの人をも幸せにするものなんだなあ」
 とつくづく教えられる気がする。
 そういう人たちは「生きた天使」だと、私は密かに思って尊敬している。

 でも悲しいかな、私は動く前に「あーでもない、こーでもない」とさんざん考え込む性格だ。逆立ちしても、完全に自然体で動けるようにはなれない。
なので、仕方ないから、せめてさんざん考えて、自分で決められるところは、自分でしっかり決めることにしている。
そして、自信のないところや迷うところは天の流れに任せる。それで、失敗したら、
 「天のバカー! 神様のいぢわるー!」
 と、さんざん文句を言いまくって、泣きわめいた後で、
「でも、きっと、神様には人間の及ばないようなすごい考えがあるのよ。
きっと、今は「大変」に見えることも、しばらく経った後では、
 「おおっ! さすが、神様! 確かに、こっちの道の方が幸せだったじゃん!」
 と思えるような配慮をして下さっているに違いない」
と、その時は信じられなくても、ひたすら自分に言い聞かせまくることにしている。
実際、そうすることでいつだって、私の人生は予想よりはるかに幸せな道を歩くことができた。
 
ただ、本当のところ、神様仏様がいるのかどうかなんて、たぶん私には死ぬまでわからないと思うし、神仏がどういうものなのかも死ぬまでわからない気がする。

 それでも、わけがわからないなりに、やみくもに「神仏の計らいは絶対に確か」と信じる覚悟を持つこと(どうやって信じるか…じゃなく、ただ、ひたすら信じ切る覚悟だけよ、覚悟!)で、人生はものすごくうまくいった。だから、
「ま、とりあえず、私の人生、このやり方でいいんじゃないかなー」
と思っている。

 でも、所詮、この世というのは「神が創った壮大な芝居」で、この世に生きている私たちは、それぞれ「特別な役」を演じるために生まれてきただけかもしれない。

 ならば、思いっきり好き勝手に話して行動しても、それは神の目から見たら、想定された範囲内のセリフやストーリー展開であり、「良い悪い」とは無縁のものかもしれない。
 ならば、思いっきり自分勝手(…と自分では思っていても、神の目から見たら所詮、想定範囲内の)に、自分らしく「私」という役を演じ切ってみるのも一つかも…。

 まあ、ともかくも、どんな形であれ、それぞれ自分が一番悔いのない方法で人生を歩けるといいよね。

テーマ:モノの見方、考え方。 - ジャンル:心と身体

16 : 25 : 48 | ひとりごと | page top↑
光のダンス
2008 / 06 / 03 ( Tue )
 最近、都心の自然の穴場散策にハマっている。

 先日は池田山公園に行ってきた。
 五反田の閑静な高級住宅街の中にあり、近くには美智子妃殿下の生家「ねむの木の庭」もある。
さほど大きくない公園だが、手入れが行き届いていて、整えられた庭木と、手つかずに近い緑のバランスがよく、小さな滝と池もあり、都心にいることを忘れそうなくらい静かで心地いい。
 
 池のほとりに座っていると、池に向かってしなだれかかるように生い茂っている楓の緑のカーテンに、水面の光がゆらゆらキラキラ反射して、まるで光のダンスが上映されているよう…。
 
 「そっかー、この光のダンス、いろいろな要素に支えられて繊細な動きが作りだされているんだー。
人工的に作られた噴水の醸し出す規則的な波紋。
「餌をおくれーー」と欲につられて寄ってくる鯉が作る波紋。
雲と太陽の加減が作る光の強弱。
風に揺れる楓の枝と葉の動き…。
これらが絶妙なハーモニーを生みだして、一期一会の光のダンスを作りだしているんだ…。
 鯉も、池も、楓も、太陽も、風も、ただただ、気ままに動いているだけなのに、なんて素晴らしい芸術が生み出されているんだろう!!」
 なーんて思いながら、ボーっと何時間も光のダンスに見入ってしまった。

 その後、「ひまわり」に相談に来られた人の話を伺っていて、
 「ああ、人間社会もあの光のダンスと同じなんだなあ」
 と、しみじみ痛感した。

 壮大な人間模様のドラマの渦中にいる人たちも、少し離れたところから見てみると、「淡々と接している人」あり、「私利私欲にまみれて、ガツガツと生きている人」あり、「本人は気づいていないけれど、集団が完全に壊れてしまわぬよう調整役として天から遣わされている人」あり…。
 ある人は楽しく、ある人は必死に、ある人は迷いながら、ある人は絶望の中で…とそれぞれの思いとドラマを抱えながら、人々が生きている姿は、神様の目線で見たら、実に芸術的で、素晴らしくつじつまの合った美しい人生模様を紡ぎだしているのかもしれない。

 その絶妙な美しさを見た時には、誰の人生、誰の行動をも変えたくないと思うのかもねー。
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