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楽しい不安?!
2008 / 07 / 29 ( Tue )
世間ではバター不足が叫ばれている昨今、我が家にはバター買い占めに情熱を傾けている輩が若干1名いた。
先日、5個目のバターを買ってきたときには…。ついに…切れた!

「そうやってマスコミに踊らされて、必要もないのに買い占める人がいるから、バター不足に拍車がかかるんでしょう?!
バター1個消費するのに我が家は3カ月かかるの! 5個もあったら、全部賞味期限切れちゃうじゃない! 期限切れで捨てたら、本当に必要としている人に申し訳ないでしょう!
戦争体験者が、物を大切にしなくてどうすんのよっ!」
と、ひとしきり怒鳴りまくってから、自己嫌悪に陥る…。
「どんなに怒って、諭したって「本人の意識が変わらない限り、行動は変わらない」のに…。まだ、私は「人は変わらない」って納得できてなかったのね…」

年配の人と話をしてみると、案外、貧乏を経験した人、戦争で不足を経験した人の方が、「物資不足」への不安が強かったりする。
人間、「不足」や「危機」を実体験すると、「平和で何不自由ない日常ってありがたいわね」と感謝の念を強く持つよりも、「不安」「恐怖」の方が強く染みついて、「危機管理」に走る人の方が多いのかもしれない。

NHKの「篤姫」のセリフ、
「開国を促す使者が来るってことは、今、「開国」という流れが来ているということなのかもしれない。変わりゆく面白い時代に生まれてよかった」
じゃないけど(ちなみに、私は家定様が気に入ってたの。死んじゃって残念!)、
「バター不足なら、ちょっとバターを減らすか止めてみるって「流れ」かもしれない。それもまた一興」
と不足を逆手に取れれば、新しい道が開けるかもしれない…と私は思う。でも、現実的には、どんなに諭されようが、怒られようが、自分の中の「不安」「恐怖」と折り合いがつかない人は、「危機管理」に突っ走るだろう。

 ただ、かくいう私も日常の些細なことなら、「なんとかなるさ、それもまた楽し」と簡単に言えるけれど、人生の障害物になってくると、「不安の虫」がうずくこともある。だから、同じかもしれない。
 
ときどき、
「昔遊んだTVゲーム、「プリンセス・メーカー」くらい気楽な気分で、人生を歩けたら面白いかもしれないなあ」
 とか思う。

「プリンセス・メーカー」というのは、主人公の女の子にいろいろな体験をさせ、教育すると、その経験値に合せて、女王さまになったり、魔女になったり、キャリアガールになったりするゲームだ。
 最初のキャラクターの性格に加えて、偶然のハプニングなども絡んで、なかなか思うような「プリンセス」に育たないのが面白い。
 「あちゃー! 今度こそ、女王さまに育てるつもりが、酒場の女主人になっちゃったよ…。ま、次こそ、女王さまに向けて、チャレンジだ!」
 と、ぶつくさ文句を言ったり、
「バンザーイ! 思い通りに育った!」
と嬉々としたりしながら、プリンセスの人生を見守るのはオツなものがあった。
 自分の人生も、ゲーム感覚くらい気楽に、
 「あ、ここ失敗しちゃった! でもま、こっちの道でもいっか!」
 と飄々と歩けたら楽しそう!

 ちなみに、いろいろな人の人生を見ていると、「プリンセス・メーカー」よろしく、いくつかの可能性の中から、行き当たりばったりで、「人生がどこに辿り着くか、終わってみてのお楽しみ♪」という人生を選んでいる人は少なくないように思う。
 反面、「人生に落とし穴、崖、障害物をたくさん用意していて、すごい曲がり道、茨道、道なき道を歩いているけれど、基本的には、この人の人生は緻密に計算された一本道だわね。ゴールがハッキリしている」と感じる人もいる。

 どっちかというと(…どっちといわなくても)、私の人生は「一本道」タイプだ。だからこそ、「絶対に、道を間違えたくない!」と思うんだろう。でも、私が道を間違える…なんて、まずありえないし(根は、かなり臆病で慎重派だから)、間違えても絶対、修正が入って、正しい道に戻るはず。
…と頭でわかっていても、実際にドでかい障害物を目の前にすると、「はて、本当にこの道でいいの? どこかで道を間違えたかしらん? 」と不安になることがある。

 こんな時、結構似たようなタイミングで歩いている友達はとても頼りになる。
 先日も友人から電話がかかってきて、
 「断崖絶壁、曲がり道、落とし穴、川、草茫々…いろいろあっても、地は必ず続いているんだから、絶対何とかなる! …と、頭のどこかではちゃんとわかってるのに、不安になるんだよねー」
 とのたまう。
「わかるわかる!
私も、頭では「自分の人生は一本道タイプだから、ただ歩いているだけで、目的地に辿り着く」ってわかってるんだけど、ちょっと障害物があると、「道を間違えたんじゃないか」と自分の人生が信じ切れなくなるんだよねー。
 そんな時に、人から「運を上げるには、こうすべき」と言われたり、もう一人の「自分」から、「努力しなくちゃ、いい未来は掴めないよ」とお尻を叩かれたりすると、ついつい無駄な横道に入って、かえってひどい目に合っちゃう…(笑)
 だから、今回こそはジタバタせず、無駄な努力はせず、流れのままに…って思うんだけど…。
 よっぽど自分の人生と魂を信用できてないと、「何にも努力しないで、心のままに時を過ごす」って、できないよねー」
 と私。
 「決めた! どうにもこうにもならない時には、「どーにか、こーにかすり抜けられる道はすでに用意されている」って、自分に言うことにしたわっ!」
 「えらいっ! そうだそうだ。うんっ、絶対その通りっ! いけいけ!」
 
 …と、ひとしきり長話してから、
「でも、彼女の人生だったら、悩む必要ないのに…。絶対の絶対に最後では、つじつま合うんだから…」
と思う。

なんたって、この友人、思いっきり行き当たりばったりの生き方をしているのだけど、これが不思議と、すべて絶妙にタイミングがあっているのだ。しかも絶――対、タダではコケん! コケたときには、必ず、目の前に百円玉か、当たりの宝くじの一つも落ちている。そういうラッキーな人生であることは、本人以上に私の方がわかっている。
だから、彼女の人生に、落とし穴があろうが、崖があろうが、障害物があろうが、
「ぜーったい、後でそれが役に立つんだよ」
と安心して、へらへら笑いながら見ていられる。
 でも、彼女に言わせると、
「えー、笑ってるけど、ホントに大変なんだよー! それを言うなら、純ちゃんの方が、よっぽど天に守られた人生を歩いてるよーー」
 なんだそうだ。

 …結局、お互いさまってやつなんだろう。
なんだかんだいって、二人とも、遊園地のお化け屋敷で、「きゃー、わー、こわーい!」って、叫ぶのが好きなタイプなんだな…と思ったりする。
23 : 11 : 37 | ひとりごと | page top↑
猛獣ちゃんと天使ちゃん
2008 / 07 / 22 ( Tue )
小学校に入る前くらいまで、私はトロくてドジで、ものすごーーい怖がりのさびしがり屋だった。
スーパーへ買い物に行った時など、親から、
「ちょっとの間、ここで待っていて」
と一人にされると、
「このまま置き去りにされて、一生会えなくなるかもしれない!」
という言い知れぬ恐怖に襲われて、場所柄も周りの状況も考えず、泣き叫び暴れまくったものだ。そんな私を育てるのは、親も容易ではなかったに違いない。

人は生まれる前に、自分の人生設計を選ぶと同時に、
「私の「肉体」はこのくらいの感情を感じることにしよう」
と、「感情に反応する音叉の数をどのくらい持つか」も選ぶのだろう。

たぶん、私は相当欲張って、世の中のありとあらゆる感情の音叉を「肉体」に備え持って生まれてきたに違いない。
だからこそ、精神的な地獄から抜け出せないでいる人たちの悲しみ、怒り、絶望感、厭世感、狂気、孤独感…などの感情を我がことのように感じられる。でも、それは一歩間違えると、自分も同じ状態になりうる可能性を秘めているということでもある。
だからこそ、そうした感情すべてに適切な対応ができる力が必要で、こういう仕事を選んだのだろう。

ただ、いろいろな経験と知恵を重ねて「すべてを受け入れる方法」を理解しても、365日24時間、神のようにすべてを受け入れて穏やかな心で生きられるわけじゃない。
なぜなら、「肉体」を持っている間は、必ず感情の音叉が鳴るからだ。

最近、ふと、牧野先生がイラストを描いて下さった「天使…」の本を眺めながら、
「プラス感情、マイナス感情を「天使」と「猛獣」にたとえて書いたけれど、「天使」って、自分の中の「神」とか、「すべてのものと一つに繋がる部分」の象徴でもあるのかも…。そして、「猛獣」というのは、「私」という固有の特徴を持った「この世での乗り物(肉体)」の象徴だったのかなあ」
なんて思う。

私の猛獣さんは、「トロくて、ドジで、ものすごい怖がりで、怒りんぼで、寂しがり屋で、根暗で、狂気を抱えていて、厭世的で、誰かが側にいて守っていてくれないと、絶対に生きていけない弱虫」だ。
だけど、とってもかわいくて愛おしい。

そんな猛獣ちゃんをもっとかわいがるには、ブルーな気分になった時は、
「大きな図体をした弱虫の猛獣さんがびーびー、わんわん泣いて、暴れている横に、ちっちゃい天使の私が黙って寄り添って、一緒に夕日が沈むのを見て、星空を見て、夜が明けるのを見る。猛獣さんの泣き声が、ひっくひっく…くらいになってきたら、天使ちゃんが「一緒に行こうか!」と声をかける…」
と想像するのが、私には一番向いている気がする。

 このやり方だと、がんばって無理矢理心を奮い立たせたときのように、元気で明るく、雄々しく、立派な気持ちにまではアップしないし、悲しみ、苦しみ、寂しさ…は消えてなくなるわけじゃないのだけれど、
「ま、いっか。だって、猛獣さんは泣きたいし、暴れたいんだもんね(笑)?」
と思える感じが、すごくラクチンだ。

 生きている限り「人間」だから、「神」「仏」「天使」オンリーにはなれないし、ならないからこそ、人生は面白いのかもしれない。
人生って、自分の中の猛獣ちゃんと天使ちゃんが、一緒に泣いたり笑ったり、時にはけんかしながらも、いつも手をつないで歩ければ、花丸なのかもね。
22 : 23 : 11 | ひとりごと | page top↑
人々が織りなすもの
2008 / 07 / 08 ( Tue )
先日、ピンチヒッターで誘われた東儀秀樹さんと中国民族楽団のコラボ・コンサートに行ってびっくり!

コンサートで、
「沖縄の子供たちの『肝高の阿麻和利』というミュージカルに感動して、新曲を作りました(最新アルバムに「キムタカ」の名で入っている)」
と披露された曲…。

忘れもしない、まさしく数年前、私の知人が、
「なんとしても、この舞台を東京で上演したい!!」
と必死で教育委員会や学校や市民団体の間を駆けずりまわって、資金工作をし、ようやく上演にこぎつけた舞台のテーマ曲だった!

この舞台は東京公演以来ブームに火が付き、沖縄でも再評価されてロングラン公演になったと聞く。…ということは、知人がいなかったら、東儀さんの曲は生まれていなかったかもしれない。
そして、東儀さんの曲を通して、「阿麻和利の舞台」が世界的に有名になったら、
「この舞台が有名になったきっかけは、ある数人の主婦たちの感動だったんだよ」
なんて言われる日が来るのかも…。
そう考えると、もしかして、「ごくごく平凡に終わったように見える隣りのおじさんの人生が、100年後の世界を動かすキーになる人生だった」なんてこともあるかも…なんて思う。

ところで、篳篥を歌声やエレキギターのように使い、ロックやジャズや民族音楽とフュージョンさせる東儀さんを見ていて、
「格式高い雅楽界の人達の中には、こういう音楽をあまり好まない人もいるかも…。
年配の人たちが、「派手メイクの金髪ギャルが、ミニスカート丈の浴衣にレースを纏い、コサージュを付け、キラキラの帯どめで装う姿」に眉をひそめるのと同じ感覚? 」
なんて思った。

でも、もしかしたら、文化とか芸術とか芸能というものは、そうやって時代の流れに合せて変化していくのが自然な姿かもしれない。
現代では古典文学の最高峰とされる「源氏物語」だって、当時の頭の固い人が現代風に評価したら「低俗なエロ小説」といったかもしれないし…?!

音楽、絵画、舞踊、工芸などの芸術は、理屈抜きでダイレクトに、人の心の深い所に広がっている世界観、風景、感情…そして、まだ見ぬ世界の雄大な自然とそこに生きる人々の暮らしの匂いや息づかいまでを、ありありと伝えることができる世界共通言語だ。
でも、世界共通言語が存在しても、お互いの理解を深め合うためには、一度自国の習慣、枠組み、考え方を横に置いて、未知のものを理屈抜きで受け入れる柔軟さが必要な気もする。
そう考えると、これからの時代、既成の枠を理解した上で、それを打ち壊して別の枠組みとフュージョンしていける「異端児」の存在は必須なのかもしれないとも思う。

そういえば以前、お能の師匠が
「伝統芸能の伝承は、未来に生まれるであろうたった一人の天才のために、過去の遺産を寸分たがわず繋いでいく。何十年、何百年と積み重ねられてきた数えきれないほどの凡人たちの人生があってはじめて、一人の天才の人生が結実するのかもしれない」
とつぶやくのを聞いたことがある。
もしかすると、「何百年かけて結実した天才」というのは、あるいは、東儀さんのように伝統の世界から見たら「異端児」なのかもしれない。

ならば、新しい時代を担う輝かしい才能を持った「異端児」たちには、伸び伸びとその才能を伸ばしてほしいと思う。
もし、類まれな才能を持ちながらも、評価されないどころか、社会につぶされそうな「異端児」に出会った時には、
「才能を発揮すべき場所はここではないのかもしれない。未来の別の場所で、大きく花開くために、ここで評価されないのかもしれない。あなたがあなたらしく、楽しく素晴らしい形で花開ける場はきっとどこかにあるはず!」
と、才能を引き出すように応援していきたいものだ。
人間の可能性を引き出すこと…それも、一つのアートだと思う。

たとえていえば、「肉体」は一つの「楽器」だ。
誰一人として、同じ音色を持たない、世界に一つの「その人固有の楽器」。

「この「楽器」は、どんな風に鳴らしたら、一番いい「音」が出るんだろう。どんな「音色」を奏でたくて、どんな「心の宇宙」を表現したくて、この「楽器」はこの世に生み出されたのだろう?
この「楽器」の中にはどんな可能性が秘められているんだろう?
もし、私がこの「楽器」を手にしていたら、どんな音を奏でるだろう。どんな曲を作るだろう。どんな世界観を表現するだろう。
ああ、でも、私はこの「楽器」を持ってない! この「楽器」は奏でられない!
この「楽器」の音色を最高に引き出してみたい!
そして、その時生まれる最高の曲を聴いてみたい!!」
そんな衝動に突き動かされて、私は人と関わっているような気がする。

たぶん、私が東儀さんより「東儀母」、千住三兄妹より「千住母」に惹かれるのは、彼女らもまた、子供という「楽器」の可能性を引き出すことに、ワクワクするような生き方をしていたから・・・なのかも。

ところで、ヘレン・ケラーとサリバン先生がこの世に結実する前に、実は、何組もの「ヘレンとサリバン先生」がこの世に生まれ、目と耳が不自由な人と健常者とのコミュニケーション方法を模索し、実用化することに貢献していたのだとか…。
そう考えると、何となく終わってしまう私たちの平凡な人生も、未来の誰かと繋がっているのかも…なんて思う。
22 : 47 : 03 | ひとりごと | page top↑
何でもありの国
2008 / 07 / 06 ( Sun )
この間、「芦刈」という能を見た。内容は、
「貧困のため、ある夫婦が離婚した。その後、妻は大屋敷の乳母になり立身出世。芸をしながら葦を売っている元夫を探し出し、立身出世させ、二人は仲良く暮らしましたとさ。めでたし、めでたし」
という話。

ひねくれ者の私は、見ていて思わず、
「えー! これって、妻の「ヒモ」になったってこと?!
仮に、地位と名誉と職と高給を与えられたとしても…よ。朝8時から夜11時まで、クタクタになって働くような職場だったり、重責を背負わされるような仕事だったら、私だったら、絶――対、嫌!!
毎日楽しく大道芸やって、その日のおマンマが食べられるなら、それで十分じゃん!

私が妻だったら、
「まあ! あなたにこんな素晴らしい大道芸の才能があるなんて、知らなかったわ! すごい! 最高!! 感動!
私も乳母なんてやめて、及ばずながら歌と太鼓で参加しますっ!
ついでに、お屋敷の稼ぎで頂戴した着物を縫い直して、ステキな衣装も作りましょう! きっと、もっともっとウケるに違いありませんわ!
お金と地位があっても窮屈で辛い生活より、自分の才能が最高に発揮できて、楽しい仕事ができるなら、それが一番!
貧乏といったって、その日一日食べていけるなら十分よ! 何より、毎日が楽しいなら、それが一番じゃありませんか!」
って、言っちゃいそう…」
と、心の中でつぶやいてしまった。

まあ、確かに昔の日本の貧乏は、半端じゃなかったのだろうけど…。
でも、今、日本に住んでいるなら、
 「どんな暮らしでも、そこそこ安全な形で生活できる国だから、どんな生活だってありだよなー」
 と思う。

 ホームレスやネットカフェ暮らしに、風呂トイレ共同の長屋生活、豪華な別荘やお屋敷暮らしに、高層マンション暮らし…。
 普通の家族生活に、一人暮らしに、共同生活…。
 自給自足のTV番組を見ていたら、
 「ガス、電気、水道、TV、冷蔵庫、一切なし。その辺の木や竹を伐採して、家も自分で建て、お産も家族だけでクリア。ここはインドかネパールかチベットの奥地ですか?」
 なんて生活をしている人もいるらしい。

 でもまあ、地球の総人口を考えてみたら、ガス、電気、水道が完備されていて、戦争もなくて、日々の生活が安全に送れる生活をしている人の方が少ないに違いない。
 それに、同じロハスな生活をするのでも、インドとかバクダットとか、砂漠の真ん中とか、戦火の中で生活するより、四季があって作物も比較的簡単に作れ、いざという時には病院や社会保障もある日本は潰しがきいて安全だ。

 さらには、路上ライブや大道芸、はたまたホールやデパートのイベント会場などでも、結構、無料の催し物をやっていたりするから、その気になりさえすれば、タダでいろいろな芸を磨くことだってできる。
 図書館に行けば、ありとあらゆる種類の本やビデオやDVDがタダで借りられるし、視聴もできるから、タダで勉強だってできる。
 粗大ゴミ収集所に行けば、まだまだ使える生活用品がタダで入手できる。

 「お金がないから、学べない。やりたいことができない」
 というのは日本にいる限り、「違うぞ」と思う。
 「なんとしても、どうにかして学びたい! 技術を身につけたい!」
 と思えば、日本にいる限り、ありとあらゆる抜け道はあるのだ。

 ただ、パターン化された日常の中にドップリ浸って、周りの人たちから、「人生なんてままならないもの。所詮この程度のもの」とさんざん洗脳されていると、
「自分らしく生きるなんて、この社会では無理なのかも」
 と思い込んでしまうのも無理ないかも…とも思う。
 特に、子供のように、親や学校社会にがんじがらめにされていると身動きが取りにくいし…。

 だから、「西の魔女は死んだ」みたいな映画がはやって、
「学校に行くことだけがすべてじゃない。いろいろな生き方があっていいんだ」
という考え方が広まるのは大賛成だ。

 実は以前、この原作者の別の本をひまわりメイトさんに勧められて読んだ。その時、
「この作者、いい感性してる!!」
 と感動したもので、この機会に「西の魔女…」も読んで、映画も見た。

原作も映画も期待に違わぬいい仕上がり。
 おばあちゃん役のサチ・パーカーは、まるで原作から抜け出してきたよう。母親役のりょうも、出番、セリフはあまりないながら、生い立ちの複雑な心理を繊細に表現していたし、映画全体の作りも原作の雰囲気をとても大切にしているのがよく伝わってくる。

 また、日々の暮らしの匂いを丁寧に描いているので、
「そっかー、日本で、ターシャ・テューダのような生活をすることも可能なのねー。なんだか、映画を見ているうちに、この山の家で暮らしている気分になってきたわ」
と実感すると同時に、
「近代建築での生活って、確かに便利だけれど、無機質で、生き物にとって不自然。敏感な人には、それ自体、心と体に影響がでそう…。
 でも、近代生活が当たり前になった人には、田舎の暮らしは、現実には相当厳しいかも…」
とも痛感させられた。

 日本では、本当にありとあらゆる生活を自由に選ぶことができる。
それって、すごく幸せなことだけれど、選択肢が多すぎて、どれが本当に自分らしいのか、「選ぶ」どころか、「考えること」すら難しいかもしれない。

「ひまわり」では、煮詰まっている人によく、
「もし、旅先で、身分証も何も持たない時に、なにかのショックで記憶喪失になったら、どういう生活をする?」
と、質問してみる。
本人は、「誰でも同じ答えを出すに違いない」と思うようだが、どうしてどうして、これが多種多様な答えが返ってきて面白い! ちゃんと本人の個性が出るのだ!

とはいえ、慣れた生活から、ある日突然、全く違う生活に切り替えるのは、相当の勇気とエネルギーが必要だ。
そう考えると、転勤、転職、退職、結婚、離婚、病気、災害、トラブルなどで、強制的に生活を変えるハメになるのは、案外、最高の人生のチャンスかもね。
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