仏様の掌の上
2008 / 09 / 15 ( Mon ) 妹の周りでは、今月、不可抗力な出来事がいくつも勃発。懇意にしているガラス卸業者の閉店に続いて、お教室の会場が使えなくなる…などなど。でも、彼女は落ち込むこともなく、
「丁度、新しい方向に進もうかと、漠然と考えていたところだから、神様が後押しをしてくれたんだと思うことにするわ!」 とキッパリ言って、さっさと次の方向へ切り替え始めた。 我が妹ながら、その切り替えのすごさに感服し、しみじみ、 「こういう対応ができるのが、「流れにうまく乗っている人」なんだろうなあ」 とあらためて、客観的に実感した。 ちなみは、今月は福田首相の辞任宣言よろしく、私の周りでも「辞職、転職、切り替え」などの動きが激しい。 中でも驚いたのは、知人の大親友が妻子を残して、数年間のチベット修行に出かけたこと! 独身女性の知人には、そういうことを身軽にやる人はいっぱいいるけれど、働き盛りで妻と小さい子がいて、そういう選択をするってすごく勇気がいる。 人間、いくつになっても、新たな人生を歩くことができるんだなあと痛感した。 そして、今月、一番感動、共感したのは妹の実体験から出た一言。 「世間では、引き寄せの法則だ、なんだかんだっていうけど、自分の努力で何とかなることなんて、本当はたかがしれているのかもね。 好むと好まざるとにかかわらず、最終的には、天の流れには絶対に逆らえない。でも、逆に、天の流れに乗っていれば、ジタバタしなくても、ちゃんと一番いい方向に導かれるんだね」 本当にそうだ。 受験だ、就職だという時期に、大人たちからさんざん「成せば成る」と、教えられてきたけれど、「成せば成る」のは「仏様の掌の上」の範囲内でのこと。 所詮、私達は神様、仏様の掌の上で踊らされているだけなのかもしれない。 だったら、逆に、 「何かあったら、神様、仏様がなんとかしてくれるさ」 と、安心して心をゆだねて、楽しく面白おかしく掌の上で精一杯踊ることに専念できれば十分かもね。 |
芸術と好み
2008 / 09 / 03 ( Wed ) 先日、全く異なる二つの芸術を鑑賞する機会があった。
一つは、箱根ガラスの森の無料イベントで行われたヴァイオリンとアコーディオンのデュオ・コンサート。 大道芸に近いものだったけれど、その演奏技術と叙情性たるや、著名な演奏家に優るとも劣らない。 美術館という演奏にはおよそ不向きな場所での上演にもかかわらず、それを逆手に取り、場所による音の響きの違いを利用して、時にはまるでオーケストラをバックにソロを奏でているかのように雄大に響かせ、時には無伴奏のソロ曲としてしんみりと聞かせ、時には音楽で観客に話しかける…と変幻自在に音を操っていく…。たった一音を奏でるだけで、心を釘付けにされるような魅力溢れる演奏だった。 内容もシリアスでドラマチックでクラッシックな曲から、思いっきりコメディでズッコケ系まで、多彩で本格的。世界の有名な曲のメドレーでは、その国の温度や空気や香りまで感じさせられる。 観客は、時に胸を詰まらせ涙を浮かべ、時に腹を抱えて大笑いし、時には一緒に手拍子を打って演奏家との一体感を存分に味わった。 数日後、別のコンサートに行った。 立派な大学出身の演奏家によるピアノとヴァイオリンとお能のコラボ。ちゃんとした会場での上演で、チケットもそれなりに立派なお値段。 曲のタッチは、 「たぶん音楽学校では「バッハはこう、モーツァルトはこう、ベートーベンはこう弾くのが正しい」と教えるんだろうな」 と思われるような、いかにも由緒正しく、基本に忠実で教本にできそうな曲想(事実、後ろに座っていた音楽関係者と思しき人が、「これこそが基本に忠実な弾き方だ」と豪語していた) 観客の大多数は出演者の知り合いらしく、実に折り目正しく素直で行儀よい態度。 また、コンセプトが「神に捧げる曲」とあってか、「強制ではありませんが」と断りつつも暗に、観客には拍手の仕方や退場の仕方に無言の制限がもうけられた。そのため、演者を舞台に残したまま、観客はなんとなく三々五々帰路につく形での終演となった。 たぶん、コンサートの完成度としては十分な内容だったのだろう。でも、個人的には、失礼極まりないと思いつつも、演奏を聴きながら、つまらないことをグルグル考え続けるのがやめられなかった。 「正統なクラッシックかもしれないけど、つまんなーい! バッハやモーツァルトも、現代に生まれていたら、もっといろいろな表現方法で演奏したんじゃないのかなあ。 それに、ベートーベン本人以上に、ベートーベンの魂の音を奏でられるわけはないんだから、 ベートーベンらしさを追求せず、もっと自分の魂の想いを大切にすればいいのに…。 神に捧げるってコンセプトはすごいけど、目の前にいる観客が感動しないのに、神は心を揺さぶられるのかなあ。変に仰々しくかしこまらなくても、目の前の観客一人一人の中に息づく神に捧げる…でいいんじゃないの?!…etc.etc」 あまりにも、グルグル考え過ぎたものだから、最後には、 「退屈しながら聴いている客って、演奏家には迷惑だよなー。私って嫌な客―! あーあ、ささやかな感動も感じられない私って、すっごい傲慢でひねくれ者かも…」 と、自分自身に辟易してしまった。 でも、家に帰ってから、ハタと気がついた。 「そっかー。コンサート会場に満ち溢れていた『正しい芸術、良い芸術とはかくあるべき』というエネルギーに巻き込まれてたんだ! しかも、演者の方向性が私の好みじゃなかったから、『本当にそれが正しいの?!』と反発したい気分になっちゃっただけなのね」 折り目正しい音楽が安心で安らぐ人もいれば、私のように「枠にハマった音楽は好きじゃない」と思う人もいる。 たったそれだけのことなのに、つい、場の空気に飲まれて「何が正しいのか?!」と、目くじらを立てるなんて、私もまだまだ修行が足りないわー(笑) ちなみに高尚なコンサートでは、「煩悩を断ち切って、正しいもの(神?なるもの??)に向かう」みたいな話もあった。でも、案外、煩悩(ぼんのう)と本能(ほんのう)って、文字通り「゛」があるかないかの違いに過ぎないのかも…。 ひまわりで仕事をしていると、世間的には「煩悩」や「欲」と蔑まれることが、案外、個人の人生にとって大切な「魂の叫び」であることが多々ある。 「頭では、『これはしちゃいけない。こんなことは間違っている。何の得にもならない』と重々わかっているのだけれど、どうにも感情が納得できない。周りが勧める生き方は、どうしてもできない。どうにも心が動かない」 と相談者が語る時、 「一見、どんなに非常識で突拍子もない方向に見えても、心が動く方向こそが、本人にとっての魂の道、本当の道。進めば必ず、道は開ける。そして、いつか必ず、『この道こそが最善であった』とわかる日がくる」 ということを幾度となく体験してきた。 そして、「破天荒な道を歩いた末に、素晴らしい人生に辿り着く相談者の姿」を垣間見ることは、私自身にとっても、とても楽しくサプライズな経験だった。 だからこそ、私は「枠を外れる」ことにワクワクするのかもしれない。 ガラスの森のデュオは、正統な音楽家の目から見たらきっと、 「そんな弾き方は正しくない。楽器をマラカスやカホン(打楽器)のように使ったり、体から離してヴァイオリンを弾くなんて邪道。弓の使い方もなってない!」 など、「正しくないこと」づくめだろう。 でも、私は、 「彼らのように、世界を股にかけて、自分の芸一つで渡り歩けたら、どんなに楽しいだろう!! 私に舞踊の才能があったなら、デュオの世界メドレーに合せて、即興で世界の民族舞踊を舞い、お芝居をしながら、彼らとコラボしたかったなあ!!」 と魂がワクワクさせられた。 二つの芸術を通して、あらためて「私って、やっぱり既存の枠の中では満足できない性格なのね。魂の自由を大切にして生きたいんだわ」と痛感した今日この頃…。 |
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