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未来予想図
2010 / 01 / 12 ( Tue )
人生も半ば過ぎまで歩いてくると、
「人生の未来予想図は無意識の中に隠されていたなあ」
とはっきり気づく。たとえば、幼稚園や小学校の頃、わけもなく心惹かれたもの…
その中にこそ、未来予想図に一番近いものがあった。

 でも今思うに、この「未来予想図」、とっても不親切だった。
 たとえると、球根や種に見本の写真だけがついているようなもの。
 いつ、どの季節に、どのくらいの大きさの花がいくつ咲くのか、
どうやって育てたらいいのか…という肝心の説明書は一切ついていない!
 
 だから、似たような花を咲かせている人を見かけては、
 「そっか! この種からは、きっとバラの花が咲くのかも! じゃあ、この肥料をやって、
こうやって育てれば、来年の6月には花が咲くに違いない♪」
 なんて期待して、マネをしてみる。

 ところがどっこい、6月になっても一向に花は咲かない…。
 「おかしい…。種が不良品だったのかな。それとも、育て方が悪かったのかな。
気候が合ってなかったのかな…」
 悩みまくって、試行錯誤するけど、やっぱり一向に花は咲かない…。

 「きっと、咲かない花の種だったんだわ…」
 とあきらめきった頃に、ラフレシアみたいなドでかい花が咲いてびっくり…とか?!
 …なんてことはない、写真をみて勝手に小さい花だと勘違いしていただけ。実は、
100年に一度だけ花をつけるでっかい花の種だったのだ!
 
…とまではいかなくても、「バラだと思ったら、実はチューリップだった」とか、
「1年で実がなると思ってたら、桃栗三年柿八年、実がなるまでには10年かかる木だった」とか、
「育った木をバッサリ切って、そのあとに新しい苗木を継がないと育たない品種だった」
…なーんてことはしょっちゅうありそう。

 自覚はないけど、人は皆、「未来予想図」を持っているからこそ、あこがれや夢を持ち、
その実現に向けてがんばるのかもしれない。でも大概、未来予想図は
あまりにも漠然としていて、いつ、どんな形で実現されるのか…まではわからない。
 だから、他人がすでに創り上げた現実を参考にして、最大限理想的な未来を想像しては、
理想像と目の前の現実のギャップに悩み、落ち込んだりする…。

でも、人生もここまで歩いてきて、いくつかの「未来予想図」の「完成形」を実際に
目の前にしてみると、
「過去のいずれの時点でも、「現実に起こったこと」を正確に予想することは
無理だったなあ。なのに、必死で先を予想しては、勝手に期待したり落ち込んだり
不安になったりしてたよなあ…。すっごい無駄なエネルギー使ってたのかも…」
とはっきり痛感する。
なにしろ、実際に体験した現実は、想像をはるかに超えたスペクタクルな内容だったから…。
それだからこそ、未来予想図で終わらせず、現実に生きてみる価値があるのだろう。

と同時に、途中で、
「なんとか、予定より早くゴールに辿り着こう!」
とあれこれ画策をしたことも、すべて徒労であったと今ならわかる。
 あがいても、あがかなくても、たぶん、ある程度の積み重ねをして歩いていれば、
ゴールには辿り着いたと思う。そして、辿り着く時期もそんなに変わらなかっただろう。
 
なぜなら、人生は自分だけの問題ではなく、たくさんの人の人生との絡みがあるからだ。
 人は自分の人生の主人公であると同時に、他の人の人生の名脇役でもある。すべて
の人の人生がうまく脚本通りに進むためにも、一人だけ足並みを外して前に進む…と
いうのはあり得ないんだなあと、今更ながらのように思う。

誰かの心の中に漠然とした形ではあっても「未来予想図」がある時、
たぶん、その人はすでに目指すべきゴールの存在する山を今まさに歩いている。
…ならば、その人は放っておいても、自然に程なくいつかゴールに辿り着くのだ…
とこの年になって、ようやく心底信じられるようになってきた。
あとは、もがき苦しむ道を歩くのか、淡々した道を歩くのかは、人生のオプション。
それぞれが、一番「生きたぞー!!」と充実感を味わえる道を選べばいいのだろう。

 そして、年末に見たシルク・ド・ソレイユの「コルテオ」のストーリーみたいに、
仕事に友情に恋に戦いに、笑って泣いて怒って絶望して…と、とことこん生き抜いた
最後に迎える「旅立ち」は、別れの寂しさも含めて、
 「うーん、渦中にいた時は大変だったけど、終わってみたら充実したいい人生だっ
たなあぁ!! こんなに惜しんでくれる人もいて、最高にハッピー! みんな、バイバーイ、
また会おうねー♪」
 みたいな感じで、とっても楽しいものなんだろうな。
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