存在の影響力
2010 / 06 / 27 ( Sun ) ここ数日、たくさんの訃報を耳にした。
今年は、あまりにもびっくりするような突然かつ予想外の訃報が多く、 一つの命の影響力について、考えさせられた。 多くの人は、「一人の存在、特に自分自身の存在そのものの影響なんて大したことない」 と思いがちだけれど、実は、一つの命が生まれたり、消えたりすることで、 知らないうちに大きな波が立ち、その人と縁もゆかりも全くなさそうな所にまで、 「風が吹けば、桶屋が儲かる」くらい影響が起こるものだ。 今年の初め、直接会ったことのない「ある人の死」がなかったら、 私のこの半年はまるっきり違ったものになっていたと思う。 そして、私自身の周囲への対応も、大きく違った形になった。 一つの命が終わることで、全く予想もしなかった波が起こり、 その波が巡り巡ってたくさんの見知らぬ人たちに大きな影響を与えていく…。 そんな波紋の広がりをつぶさに観察できる所に、今年はいるようだ。 一粒の命の種が蒔かれた時には、しっかり悲しみ、悼むと同時に、 その人が命を賭けて残していったメッセージを大切に育んでいきたいと あらためて強く思った。 ところで、その後、我が家のルナ子ちゃんは処置が功を奏して (…って、絶食して、その後食事量を減らしただけだけど)、すっかり元気になり、 無事女王様ぶりが復活! いやー、多少うるさくても、生意気でも、ルナ子は女王様してる方が安心だわ。 まあ、この分なら、当分は大丈夫でしょう。 ご心配おかけしました! |
川は流れて…
2010 / 06 / 23 ( Wed ) 前回、ブログで「ひまわり閉院するかも」と書いてから、
急に周りが大きく動き始めている。 行きがかり上、友人の起業の手伝いを何となく始めたら、かなり面白くて、 「ひまわりの次は、友人の会社の手伝いか?」 とか思っていたら…愛犬ルナ子ちゃんが重病らしいと発覚。 病状によっては、ひまわりを休んで介護生活突入かも…?! ここ数日、粗相がひどく、連日、家中「大小まみれ」だったもので、 「我が家のワールドカップは、うんこのサッカーボールでルナ子大活躍だね。 ルナ子のひとりごとのネタが増えたよ」 なんて冗談を言っているうちは花だった。 そのうち、下痢便のような嘔吐を繰り返し始め、 どうやら「大腸あたりにガンができ、穴があいて胃か腸と繋がってしまった」 らしい感じ。 人間でいえば、末期ガンで、ホスピスケア突入といったところ? なので、「ルナ子のひとりごと」は当面お休みになりそう…。 楽しみにして下さってる皆さんごめんなさい。&ルナ子の病状いかんによっては、 今後、急な休診等がありうるかもしれません。 ご協力、ご理解のほど、よろしくお願いいたします。 そして、川は流れてどこどこ行くの…かなあ…。 …って、考えても仕方ないので、日々起こることに向き合うだけだわねー。 |
16歳の記憶
2010 / 06 / 12 ( Sat ) 先日、友達に誘われて、芝居を見に行った。
ストーリーは「奇病に罹り、記憶が16歳に戻ってしまった人々と、 それを取り巻く人々」の物語。 ある日、目覚めたら、母親ほどの年齢の人が、自分のことを「あなた」と呼び、 自分より年上の男が「父さん」と呼びかけてきた。 どうやって、見知らぬ家族を受け入れるのか? ある日、目覚めたら、誰一人知る人のない中にいた。 家族は全員死んで、一人で事業を起こして、今は社長をしているのだと聞かされた。 どうやって暮らして、どうやって仕事をしていこう? もし、失った記憶の中に、受け入れがたいとんでもない過去や秘密があって、 家族が記憶をねつ造していたら?? …などなど、「もし自分なら、どう感じ、どう考え、どう生きていくのか?」 と考えさせられる話ばかりだった。 もし、「16歳の私」が今の私になり、自分が歩いてきた軌跡を知ったら…。 たぶん、人生のよいところには目が行かず、悪いところばかりに心を奪われて 受け入れられず、自分の人生を呪い、気が狂って自殺してしまうような気がする。 16歳の私でなくても、数年前の自分が、 「この先、数年後に、こんなことが起こって、こんな風に過ごしている」 と「出来事の起こる時期と簡単な内容」だけ知らされたとしたら、 絶対に受け止められなかっただろう。 「人生のある地点に至るまでの過程で、どんなことがあって、どんな体験をして、 どんなことを感じ、どう学んだか」 という細かいプロセスや理由や体験内容がわかって初めて受け入れられることって、 多々あるのだなあ、とあらためて思う。 また、大地震のように、起こってしまったからクリアせざるを得なくて、 仕方なしなし乗り越えたからこそ受け止められた出来事…というのも、 人生に多々あったことに気がつく。 そう考えると、 「未来はどうなっているのか、知りたいなあ」 と思うことはあるけれど、知らない方がいい場合は多いのかもしれない。 芝居の後、友人からこう尋ねられた。 「で、純ちゃんは16歳に戻って、やり直しができるとしたら、 もう一回同じ人生を歩くの?」 即座に「うん!」と答えた。 10年前なら、違う答えをしたかもしれない。 でも、ここまで歩いてみると、超私好みな人生だった。 いろいろな伝記や物語など見聞きしても、「今の人生」以上に私好みな人生には お目にかかってない。だから、他の人生と交換したいとは思わない。 たぶん、そういう人生を歩けたコツは、 「人生の岐路に立った時、「自分好みの方、自分好みの方」と選んできたこと」 かもしれない。 そしてまた、新しい岐路を前にしている。 実は、数年前から漠然と、「次の可能性が見えてきたら、 「ひまわり」は終わりになるなあ」と思っていた。 でも、この3月に「心が動いた時は、先が見えずに「見切り発進」しても、 後から道はちゃんとついてくる」という経験をして以来、 行動はさらに大胆不敵になってきた。 なので、次の方向はまるで見えてないけれど、そろそろ終わりかなあと思い始めている。 まあ、残務整理などがあるから、今年いっぱいは続けると思うけれど…。 人生は一度きり。 どこに流れていくか、まるで先の全く見えない人生も、案外悪くないかなあと思う。 |
安全志向?
2010 / 06 / 04 ( Fri ) 自然派志向の産科のお医者さんと、以前こんな話をしたことがある。
「今や4人に一人の妊婦さんが帝王切開を受ける時代。 でも、本当に4人に一人がお腹を切らなきゃ、子供が産めないなら、 人間は滅びるよね。産める力があるから妊娠するのにね。 ただ、今の時代の人々は、医者も含めて、 「安全に産める体を調えるためには、『陣痛という力』と『時間をかけること』 が不可欠」 「生命の現場には、わずかの死はつきもの」 って認識が甘い。そして、むやみに「安全、安心、便利」を求め過ぎたから、 こんな医療になったんだろうね」 でも、今ふと思う。 大多数の人が、「安全に産めて当然。できるだけラクして簡単に産みたい。 それなりの方法をとれば、必ずできる」と思い込んでいるならば、 帝王切開が4人に一人という医療の現実は、案外今の世の中に合っているの かもしれない。 もともとお産という生命活動は、「楽して簡単かつ安全安心に」なんて営みではない。 お産が始まると、女性の体は数~十数時間で劇的に変化する。 それまで、赤ちゃんが母体としっかり繋がって離れないように、子宮の入り口は固 く閉じ、胎盤は子宮にがっちりくっついて栄養をもらっていた。 それが、タイミングを合わせて、数~十数時間で、赤ちゃんが外に出て、 自力で生きられるように変化するのだ。 たとえていうと、硬いお餅を焼くと、柔らかいお餅に変化したり、 氷が温められて水蒸気に変わるような大きな変化が妊婦さんの体に起こる。 実際に子宮をはじめ、妊婦さんの体に触ってみると、最初は硬いお餅だったのが、 赤ちゃんが生まれる時には、つきたてのお餅のように柔らかくなり自由に 伸びるようになる。 よくよく考えたら、数時間で人間の体がぐにゃぐにゃになるような変化って、 通常では考えられない、奇跡的な営みだ。 そして、その変化を創り上げるのが「陣痛」でもある。 「陣痛」は、お餅を焼く時の火と同じ役割をする「スーパーエネルギー」を 生みだしているのだ。 陣痛が起こり、収縮と弛緩を繰り返すことで、妊婦さんの体は、子宮をはじめとした、 体の細胞がどんどん変化して緩み、柔らかいお餅のように変わっていく。 陣痛は生命の神秘の立役者だ。 この大変化があるからこそ、安全に赤ちゃんが産めるのだ。 だから、「陣痛抜きで、ちゃっちゃと安全に楽なお産」なんて、生命現象的に ナンセンスな話。 でも、それが「当たり前の考え方」になっている現代、「 陣痛」は忌嫌われるものになり、妊婦さんは痛みにおびえ、 緊張して「緩む」ということができなくなっている。 すると確かに、安全な柔らかい産める体にならないから、帝王切開の方が安全… という理屈もまんざらではない…ということになる。 ならば、4人に1人は帝王切開もいたしかたない…のかもしれない。 似たようなことが、「口蹄疫騒ぎ」にもいえるんじゃないかと思う。 殺処分は「家畜の命を守るための対策」といってるけど、 「ウィルスの蔓延で死んでしまう数」と「殺処分になる数」を比較したら、 殺処分の数の方が多いんじゃないだろうか。なんだか、 「安全安心」という言葉に踊らされて、無意味な殺戮をしてるように思えてならない。 実は、口蹄疫は家畜の死亡率の問題以上に、「罹ると、口内炎で食事が取れなくなり、 肉質が悪くなって商品価値が落ちる」という問題が大きいとか… (ちなみに、口蹄疫にかかった牛を食べても安全)。 結局は、家畜の命より「人間の利益」に目がくらんだ方策じゃん!と思う。 「命を大切に」というスローガンを掲げながら、一方では目を血走らせて 「殺処分」を主張している大人たちを見ると、未来を担う子供たちに無言で 最悪の命軽視の教育をしてるように思えてならない。 病気が蔓延すると、その病気に弱い個体が亡くなり、強い個体が残っていくのは 自然の法則。 自然淘汰されることで、新しい時代を生き抜くのに適したDNAを持つ個体が うまく残っていくように仕組まれている。 でも、人為的に作り出された動物は、真っ先に自然淘汰される弱さを 持っているのかもしれない。 「短期間で太り、利益が出る」ように「人工開発された牛」が、 真っ先に口蹄疫にかかったのは、自然界の法則では、真っ先に自然淘汰されてしまう 弱い生命である可能性は高い。 ならば、帝王切開同様、「体が弱く、自然のままには生き残れない現代の家畜」を 守るためには、殺処分という大々的な対策が必要なのかもしれない。 でもねえ…、私はそういう「安全、便利、利益第一主義」のやり方、 大嫌いなんだけどなあ…。 そんなに便利、安全、利益を追求しなくていいから、もう少し命も、 自然も、体も、自然の営みも大事にして、生命の神秘に敬意を払って生きられたら いいのになあ。 |
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