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一年を振り返って
2010 / 12 / 29 ( Wed )
今年はとても印象深い年だった。
振り返ってみると、普通の人から見れば、マイナスに見える出来事の方が多かったけれど、
それらがあってこそ、辿り着きたかった人生の境地に辿り着くことができた。

今年に限らず、人生全体を見回してみても、案外「よい出来事」よりも
「最悪の出来事」の方が、自分自身を深いところから振り返り、
変わっていくきっかけになっていたことは多いように思う。

そう考えると、「悪い出来事」が起こるのを避けようとするのは、
ナンセンスなんだなあと、あらためて深く思わされる。

どんな出来事も人生に必要があるから起こる。
どんな出来事も人生をよりよき方向に導く糧にできる。
無理に変わろうとしなくても、日々の出来事と真摯に向き合って、
「こんな風に行動できる私が好き。こんな風に対応したい」
とその時一番しっくりくる行動を積み重ねていれば、気がついたら、
自然に「理想の自分」でいられるようになっている…。

そんなことが、ストンと心の深い所に落ちた、深い意味でとてもよい一年だったと思う。

これから本格的に始まる新しい時代は、「良し悪し」「光と闇」「善悪」「男女」
…といった二極性がどんどんあいまいになっていく時代なのだろう。
一昔前のノストラダムスの大予言よろしく、ある種のスピリチュアル系の世界の人たちが
こぞってお祭り騒ぎをしている「アセンション」というのも、
たぶんこの「二極性があいまいになる価値観の時代」のことを指しているような気がする。

文明開化の時代よろしく、価値観が変遷していく時代はとてもエネルギーに溢れ
楽しい時期ではあるけれど、「古い価値観」を大切に守っていきたい人たちにとっては
苦しい時期かもしれない。

流れの変化がどんな風に世の中に反映されてくるのか、
なかなかに楽しみな時代になりそうだ。

来るべき年が、皆様にとって有意義な年となりますように…。
皆さま、よいお年を!
17 : 57 : 38 | ひとりごと | page top↑
自然を愛でる
2010 / 12 / 20 ( Mon )
子供の頃、ものすごくあこがれ、興味を持った話、ドラマ、歌…などの世界観の中には、
「人生の未来予想図」が入っているなあと、最近あらためて思う。

と同時に、子供の頃、「見たくても見られなかったドラマ」や
「やりたくでもできなかったこと」も、今客観的に振り返ってみると、
 「それを見ていたら(やっていたら)、人生の歩く方向が違ってしまう」
 からだったことが、今になるとハッキリわかる。
 できないこと、縁がなかったことは「人生にない方がいい理由」が
必ずあるんだなあ…と思う。

子供の頃、好きだった絵本に「片足ダチョウのエルフ」がある。
勇敢で強いダチョウのエルフは、森の仲間を守るために片足を失って動けなくなり、
最後に樹になる話だ。この絵本を読んで以来、
 「晩年は樹のように生きたい」
とずっと思っていた。
でも、「樹のように生きる」というのがどういうことか、
今一つ腹の底からわかってなかったけれど…。
今年はようやく、答えが見つかった気がする。

 自然は全く動かず、何一つ変わり映えもしない
ゆっくりとした時間の流れの中にいるように見えて、季節の移ろいと共に、
着実にほんの少しずつその形を変えていく。
 春には花が咲き、夏には青々とした葉が生い茂り、秋には紅葉し、
冬には立ち枯れているように見えて密やかに春を迎える準備をしている…。
 そして、何十年、何百年と同じような四季を繰り返す中で、
木々は静かに静かにほんの少しずつ成長し続けている…。

 そんな静かな人生もあり…と思いながらも、あれこれ欲や目標や関心事や
悩みがたくさんあるうちは、様々なことに心動かされて、
完全にじっとしていることができない。
 でも、関心事をとことんやれるだけやり尽くすと、何の努力も瞑想もなくても、
自然に心の中は空っぽになる。それが私にとっての「樹の人生」だったのかもしれない。

 そして、空っぽになると、「今あるもの」がそのままストンと入ってくる。
 月の満ち欠け、紅葉の移り変わり…など、自然の美しさがひときわ美しく感じられるのも、
「やらねばならないこと」「考えなくてはならないこと」が
ほとんどなくなったからかもしれない。
現代では、勉強、研究、仕事、家事、芸術、テレビ、映画、本、ショッピング、遊び…と、
心揺り動かされるものがたくさんある。それは豊かさの一つではあるけれど、
そうしたものがない時代の方が、じっくり自然を満喫できたのかもしれないなあ…
なんて思ったりもする。
逆に、今の時代、ゆっくり自然を満喫できる状態にいるということは、
相当豊かなことなのかもしれない…ともいえるのかな?
17 : 37 : 11 | ひとりごと | page top↑
価値観の変遷
2010 / 12 / 12 ( Sun )
昔のドラマをDVDで見ている。
今見ると、医療監修はめちゃくちゃだし、シーンの繋ぎ方もめちゃくちゃ。
現代のドラマ制作では考えられないくらい突貫工事の作品だ。
でも、今のドラマにはない「勢い」と「情熱」のようなものがあるから、
ついつい夢中で見てしまった…。

昔のドラマと今のドラマ、そして、浅田真央ちゃんと村上佳菜子ちゃんの
スケートなどを見比べて、最近つくづく思う。

「高度な技術で、美しく立派に体裁よく、きっちり仕上げられたものは
確かに素晴らしいかもしれないけれど、人の心を揺り動かさない。
感動は、「立派。上手」であれば生まれるものでもない。
表現する本人に「これを伝えたい! 私はこんな風に感じている!!
私自身もとても楽しんでいる!」
という熱いパッションがある方が、下手でも強く心に響くなあ」

ついでに、この何十年かで変わってきた価値観の変遷も強く感じる。

たとえば、マクドナルドのハンバーガーやミスタードーナツなどは、私が子供の頃は、
「都会の人しか食べられない、あこがれの食べ物」だった。
 
「マクドナルドのハンバーガーの中には、酸っぱいキュウリが入ってるんだよ!」
と自慢する友達がどんなに羨ましかったことか…。
友達の誕生パーティで初めてハンバーガー(ちなみに、ごくシンプルなやつよ)を
ごちそうになった時、
「こんな珍しいものを出してくれるなんて…。お金持ちのお家はさすが!」
と、すごく感動したものだ。

なのに、今じゃ、マックやミスドで、誰もそんなに感動はしない。
40年前の人たちが現代にきたら、たぶん、ごくごく普通の家の暮らしを見ても、
超特権上流階級の暮らしに見えるに違いない。
それほど、この数十年で私たちは物質的に豊かになった。
医療や科学技術も格段に進んだ。
 
それでも、人々は「まだ足りない。不足ばかり。進歩がない」と文句を言っている。
結局、どんなに豊かになり、進歩しても、それが日常になると
人は満足しないってことなんだろう。

逆に、時代の変遷と共に失われたものが、キラキラ美しいもののように
思えてくる場合もある。
中には、当時、とても煙たがられていたもの(暴走族、お立ち台ギャル、
ゴーゴー喫茶…)も、今では素晴らしいものだったように思われたり…。

「龍馬ブーム」や「戦国萌え」だって、リアルな現場で体験すれば、
規模は違うものの第二次世界大戦と中身は大して差はない。
ところが、時がたつと、「悪」も「萌え」になる。
善悪の基準なんて、そのくらい脆いものだ…ともいえる。

だから、20年も経てば、
「ニート、フリーター、引きこもり…。スピリチュアルに、萌え…
あの時代は安全で豊かだったから、ゆっくり自分の中に入って思索ができる
いい時代だったのかもね」
と言われる日が来るかもしれない。

平安時代、戦国時代、江戸時代…。海外なら、三国志時代、ローマ帝国時代、
フランス革命時代、開拓民時代…。
私たちが、いろいろな時代のドラマを楽しむように、魂たちも
「その時、その場所でしか体験できない人生」
をリアルに生きてみたくて、いろいろな時代に生まれてくるのかもしれない。
 
多分もう少しすると、次の価値観の時代に移り変わっていく
(新しい時代の子供たちが育ちつつあるから)。
どんな世界が広がっていくのか、なかなかに楽しみだ。
そして、これだけ急激に、移り変わっていく世界をリアルに体験できたのは、なか
なかラッキーな時代に生まれてこれたのかもしれないとも思う。
13 : 13 : 24 | ひとりごと | page top↑
生という体験
2010 / 12 / 03 ( Fri )
 映画「玄牝」と「うまれる」を見てきた。
切り口は違うが、どちらも「出産」をテーマに扱いながら、
「死」も合わせて濃厚に描写していた。
「生きること」をとても客観的に見ることができた。

 よく、
「なんのために生きるのか。いかに生きるべきか」
 と、問うことがあるけれど、実は、
「その「問い」や「問題意識」そのものが、当人にとって大事なこと。
それがあるから、自分なりの人生ドラマが創られる」
と今回、腹の底から実感した。

突き詰めていうと、ある意味言い古された言葉だけど、
「どんな風に生きるかは、どうでもいい。
「ただ生きて、いろいろなことを体験して、死んでいく」だけで十分!」
なんだな…と、腹の底から実感した感じ。

ちなみに、これは人を励ます時によく使う、
「あなたは、生きているだけで価値があるのよっ(キラキラ、うるうる)」
ってな、お涙ちょうだいの話じゃない。むしろ、
「価値があるかないか…なんてことも、「生きる」上ではどうでもいいこと。
四の五の言ってないで、ただ、体験すりゃーいいんだってば!」
 に近い感覚?

 たぶん、人っていうのは、自分の人生を歩き切るのに(体験するのに)
一番ふさわしい器(肉体)を持って生まれてくるんだろう。
 空を飛ぶなら「飛行機」、陸を走るなら「車」、海を渡るなら「船」を選ぶ感じ。

 「車」の体を持って生まれた時には、
 「思いっきり、いろいろな所を走り回る」
 という人生を歩くのが普通なのだろうけど、
 「なぜ、私には翼がないんだろう。なぜ、飛行機じゃなかったんだろう」
 という「問い」をもって、「車」と「飛行機」の違いを研究して一生を終えてもいい。
 
「私には翼がない…」
 と、「車」であることそのものが「問題」だと思って、
一生落ち込んで引きこもって生きてもいい。

 あるいは、
「交通事故に合うのが怖くて、車を持ってるけど、走らせませんでした」
 とか、逆に、
「暴走し過ぎて、ボロボロになってすぐ壊れてしまいました」
 でもいい。

 ようは、「持っている「車」を使って、どんな体験をするか」が大事で、
体験を選ぶのはその人次第なのだ。

 ちなみに、どんな「問い」「問題意識」を持つかは、
過去の経験やもともとの性質に基づくことが多い。
だから、過去や性質に捉われず、今までと全く違った「問い」
「問題意識」を持つことができたら、人生展開も大きく変わってくる。

 でも、大概は、自分が持っている「問い」「問題意識」はなかなか変えられない。
変えられないのは、それがその人にとって大切で重要な人生のテーマだからだろう。

「なぜ、私はこの車を持っているのか」
という問いと、それにどう答えるか…の中に、その人の生きたい人生のヒントがある。

 つまり、「車」に「翼」がないことは「問題」ではなく、
「私の車には「翼」がない。飛べないのはゆゆしき「問題」だ」
 と、「ない」ことに注目して、自分の人生を見るから人生に「問題」が生じる。

「私には「翼」がない。ということは、陸を走るのに「有利」ということかも」
 という「問い」をもって人生を見ると、同じ「車」を持っている人生でも、
「有利」なことが目に入ってくる…というだけのことだ。

 もっと簡単に、「生きる」を考えるなら、
「ネットの仮想空間が「現世」で、そこで生きるアバターが「人間」。
アバターを動かしている人たちが「魂」で、私たちが住んでいる世界が「天国」」
 と見るといいかもしれない。

 なんのことはない、仮想空間で遊んでいる人たちは、パソコンを使って、
「この世に生まれて、生きるとはどういうことか」
を仮想体験しているだけなのかもね。
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