ツイてる?
2011 / 06 / 26 ( Sun ) ここ最近、愛犬ルナ子が絶不調。
徘徊しながらウンコを漏らすものだから、床も本人(本犬?)も、 粘土を塗りたくったようにウンコだらけに…。 生活スペースを変えてしまうと、ルナ子の性格と痴呆のダブルパンチで パニックになるため、今までは、時々お漏らしをしても「仕方ない」と、 通常通り「リビング、廊下、玄関」で過ごさせていた。 でも、これだけ連日ウンコにまみれまくると、「通常通り」は限界! 本当なら、オムツの一つも充てたいところ。 でも、さらに凶暴になって、おむつをかじって食べそうで危険なので、これも却下。 まあ幸い、痴呆が進んで、最近ではどこにいるのかがわからなくなりつつあるので、 試しにケージに入れてみようということになった。 果たして、うまく慣れてくれるものやら…。 ちなみに、最初に、ウンコ粘土でまっ茶色にベットリ塗り込められた床を 発見した時は、五感のすべてに超刺激的なあまりの大惨事(臭いが特にすごい!)に、 大パニックで完全フリーズしてしまった…。 どこから始末すればいいかわからず、片づけが一段落した後もしばし放心状態…。 ただ、犬は体が小さいので、抱えて外に出したり、風呂場に入れてウンコを流すのも、 人間よりはずっと簡単。ウンコの量も人間よりはずっと少ない。 そう考えると、人間の認知症の介護って本当に大変だなあと、ひしひしと身に染みて感じる。 それでも、大惨事も連日になると、 「ああ、またやったわね…やれやれ…」 と思うだけで、テキパキ段取り良く片づけられるようになってきた。 病院や施設に勤めていた経験がこんなところで役立とうとは…♪ 朝早くに、ルナ子の鳴き声で叩き起こされても、 「朝4時半から出勤している人って、結構いるのね。皆さん、お仕事ご苦労様♪ ルナ子の粗相がなかったら、こんな感動は味わえなかったわねー。」 とか思いながら、ウンコ掃除をしている自分に気付いて、これまた感動したり…。 慣れって恐ろしいもんだ! でも、敵もさるもの、先日は、ぬか味噌の甕(かめ)を開けて (今まで、14年間、開けたことはなかったのに!)、ぬか床を1/3くらい食べてしまった! その結果…塩分の取り過ぎと、この暑さで脱水けいれんを起こし、 ウンコを漏らしながらぶっ倒れた! (笑い話のようだわねぇ…) 第一発見者の妹から緊急電話がかかってきた時には青くなった…。 が、現場検証をしながら、 「ウンコをじゃじゃ漏らしして倒れるなんて、首つり自殺の死体と同じだねぇ…」 なんて会話をシレッとしながら処置するなんて、 医学部出身者と法学部出身者(法医学履修)って、ホントに怖い…。 しかしながら、ここしばらくは、家と服と全身から「ウンコ香水」が 漂っているような錯覚に襲われる…。 それに、朝起きた時、仕事から帰った時に、家の現状を見るのが恐ろしいのなんの…。 超スリルとサスペンスな日々…。 ああ、早くケージが届いて、「ウンがツイている日々」からおさらばしたいっ! ルナ子「現実の方が、ドラマよりドラマチックでしょー? それとも、あたちの脚本演出がうまいからかしらん♪」 |
場面転換
2011 / 06 / 02 ( Thu ) 今回も「ドラマから学ぶ」…の続き。
ドラマのストーリーが気に入らない時、私は、 「自分だったら、こういう展開にしてみるのに…」 と全く違うストーリーを頭に描いてみる。 ちなみに、自分が物語を作る立場になってみると、 「場面転換をどんな風に演出するか?」 は、とても重要だ。 たとえば、 「苦労してサクセスするストーリーを描きたい。 そのために、主人公に、「贅沢」と「どん底貧乏」の暮らしを体験させ、 「欲深い人」や「情にあふれた人」と出会わせ、 世の中を渡っていくいろいろな知恵を身につけさせよう」 と考えた時、少なくとも、「贅沢三昧生活の場面」と「どん底貧乏生活の場面」 が必要になってくる。 しかし、あまりにも両極端な生活を一度に体験するのは無理。 そのため、二つの極端な場面を繋ぐための「場面転換」が必要になってくる。 そこで利用するのが、大地震だったり、会社の倒産だったり、両親の死亡だったり… という「ドラマな出来事」。 こうした「人生の場面転換の出来事」は、ドラマでは超山場、最高の見どころ、 視聴率アップのワクワクハラハラドキドキの最高の見せ場になる。 だから、そうした場面転換シーンは、より盛り上げるために、とことん落としておいてから、 素晴らしい幸せに引き上げる…という、おもいっっきりジェットコースターのような アップダウンストーリーにするのが、ドラマ作りの常套手段だ。 さらに、こういうドラマな出来事を体験した主人公が、死ぬ前に人生を回想するシーンでは、 「物事は必要があって起こっているんだなあと、年をとると思う」とか、 「万事塞翁が馬」 なんてセリフが出てくるに違いない。 そりゃそうだ。 脚本家からしたら、わざわざ「こういう人物が、こういう人生を歩く」 と綿密に計画を立ててストーリー展開を考えたのだから、 必要もない出来事が起こるわけがない。 実際の私たちの人生も同じかもしれない。 人生の課題をクリアして、場面転換が必要になる時には、 なにかとてつもなく大きな出来事が起こって、否応なく揺り動かされ、 場面転換させられる。 だから、一見不幸な出来事のように見えて、後から考えると、 「必要があって起こったのかもしれないなあ…」 とか、 「あの時、こういうことが起こらなかったら、人生違ってたかも…」 とか思うのだろう。 だから、大変な出来事に出合った時は、「ぎゃあぎゃあ」と思いっきり騒いで、 心揺れながらも前に進んでいけば、「ああ、ここに辿り着くために起きた出来事だったのね」 と思う日がいつか来るだろう。 ついでに、役者が大河ドラマの主役を射止め時、決まった当初は、 「なんて自分は幸運なんだろう♪」 と感謝感激するものの、いざ演じ始めてみたら、 「すっごく大変! もうこんな大役は嫌かも…」 と思うことがあると聞く。 人生も同じ。 生まれる前、人は、 「こんなすごい人生(役)を生きるチャンスがもらえるなんてラッキー♪」 と思い、 「どうせなら、山あり谷あり、思いっきりドラマチックな人生設定にしたいな♪ 必ず目指すゴールにたどり着けたらつまらないから、 途中で「違う結末」や「ゲームオーバー」に辿り着く設定なんかも作っておこう♪」 とかなんとか、思う存分壮大な脚本をワクワク練ってみる。 ところがいざ、この世にきて、人生を体験し始めてみると、 自分が面白がって脚本を書いたことなど忘れて、 「こんな大変な人生、もう嫌! 勘弁して!」 と思うのかもしれない…。 そう考えると、もしかするとブッダやイエスは、人々に立派な人になってもらいたくて、 「すべてを愛しなさい。すべてに感謝しなさい」と言ったのではなくて、 「実は、この世にあるものはすべて、あなたがステキなドラマの主役を演じるために わざわざ用意されたものなんだよ。 この世のものは、すべて「あなた」という人生をカッコよく、面白く描くために存在している。 実は、「本当のあなた」が自分自身のために用意したものなんだよ。 創造主は「本当のあなた」なんだ。 世の中すべてのものは、「あなたが体験したかった人生(役)」のために用意されたもの。 そう考えると、世の中のすべてのものが愛おしく感じられ、 存在するものすべてに感謝したくならない?」 と、世の中のしくみを教えてくれようとしただけなのかもしれない。 「神の御心のままに…」 というのも、 「生まれる前の「本当のあなた」が「あなた自身のために書いた脚本」を信じて、 そのままに生きてみよう!」 ってことなのかもしれない。 役を演じている最中は苦しいかもしれないけれど、時々ふと、 「大役を射止めたんだ! この役をやってみたかった、楽しみたかったんだ。すべては ドラマ作りのために用意されたものなんだ」 と思えたりすると、人生をラクに楽しんで味わえるかもねー。 |
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