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2006 / 09 / 11 ( Mon )
私には苦手なものがいくつかある。
たとえば、「周りの人たちを突き飛ばしてでも、スーパーの目玉商品をゲットするおばさん」とか、「公共の場で狂ったように泣き叫ぶ子供と、その子をヒステリックに怒鳴りつける親」とか…。

 苦手な出来事に出会うと正直いって、「今日はついてないかも…」などと、ブルーな気持ちになる。
 でも、よくよく考えると、私の中に、
「ああいう人、嫌い! あー、嫌だ! なんであんなことをするのかしら」
と嫌ったり、批判したりする心があるから、「嫌なことが起こった」ように見えるだけなのかもしれない。
似たような現場に出くわしても、人によっては、「わあ! エネルギッシュなおばさんたちね! あのパワーを分けてもらおうっと!」とか、「子供って自分の気持ちに正直だなあ! 羨ましいなあ。お母さんも、すごくがんばってるんだな。子育てご苦労様!」と、ほほえましく見つめられる人もいるに違いない。そういう人たちは、彼らから、かえってパワーをもらえるはずだ。

周りで起こる出来事は、すべて自分自身の鏡だ。
周りで「大変なことばかり起こる」と思うならば、実は自分自身の中に「大変がある」ということに過ぎない。自分の中から「大変」がなくなれば、外側で何が起こっても「大変」とは見なさなくなるだろう。

それに、よくよく考えてみると、苦手な性質は自分自身の中にも眠っている。
私は「スーパーで商品ゲット」には走らないものの、仕事や習い事を極めたいと思ったら、何がなんでも誰よりも秀でないと気が済まないところがあるし、落ちこんだ時には布団をかぶって、大声でワーワー叫んで泣くことだってある。それに、今でこそ、かなり穏やかに過ごしているけれど、根は母親譲りだから、ケンカっ早くて、ヒステリックな性質を持っている。

つまり、状況が変われば、苦手な人たちと同じようなことを私がやらないとも限らないわけだ。

…とわかっていても、それでも、自分の心の中に、
「理屈はわかっていても、苦手なものは苦手だし、嫌いなものは嫌いなんだもん」
と叫ぶ自分もいたりする。

以前の私だったら、無理矢理、
「外側の「大変」をなくすためにも、何がなんでも、自分自身が「大変」と考える心を変えなくちゃダメ!」
と自分自身を説得しようとしていた。

でも、最近では、
「理屈はわかっていても、嫌いなこと、苦手なことってあるよねー。それでいいよー。でも、『どんなぐちゃぐちゃな出来事の中にもプラス面はあるんだな』という気持ちだけでも、一緒に持っていようよ。そうすると、自分のことも、周りのことも気楽に見ていられるからさ」
と、話掛けるだけに留めている。

すると、「苦手」「嫌い」「大変」は確かに存在するのだけれど、そんなに辛く感じないから不思議だ。
「苦手」「嫌い」「大変」を克服するために、がんばって自分を変えるのもいいけれど、隣りに、「素敵なこと」「愛」を置き続けるだけのほうが、楽チンかもしれない。

話変わって…。

親王誕生おめでとうニュースを楽しく見まくっていた。
ところで、私は在学中、誕生会見をされた皇室医務官の金沢一郎先生の授業を受けた。大学の授業なんて、知識としては残っていても、どんな先生がどんな話をしたかなどはほとんどおぼえてないのだが、金沢先生の話だけは、今だにおぼえている。

ご専門が神経難病だったもので、学生には難しいはずなのだが、それはそれはとてもわかりやすく、なおかつ面白おかしく、時に、涙をそそるような感動と共に教えてくださった。
だから、学生たちは、
「金沢先生、本当にこの仕事が大好きでたまらないんだね」
と噂したものだ。先生の話はマニアックな内容だったので、教わった知識が現場で役立つ可能性は少なかったけれど、先生の人となりや仕事に向う姿勢はとても学ぶところが多かった。私は、
「どんなにためになる話よりも、本当に自分の仕事を愛していて、楽しくてたまらない…と思っている人の話の方が楽しいし、心に残るなあ」
と思ったことが忘れられない。

ああいう情が厚くて、素敵な先生が主治医になってくれるなんて、皇室の方々も心強いことだろう。よかったなあ、と思いつつ、記者会見のTV画面に向って、
「金沢先生―! がんばってくださいねー!」
と、手を振ってしまった私である。
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