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自然に生み出されるもの
2006 / 09 / 13 ( Wed )
羽衣のように薄い布を作る沖縄の織物作家のテレビを見た。

普通、絹糸というのは30粒の蚕の糸を縒り合わせて、一本の糸にしたものを使うのだそうだ。でも、その作家さんはたった一粒の蚕から糸を作ることに挑戦しておられた。

極細の糸は切れやすく、扱いも大変だ。機織に掛けられる状態にするだけでも何ヶ月もかかる。そればかりか、布を織り始めてもすぐ糸が切れてしまい、織っている時間よりも、切れた糸を繋いでいる時間の方が長いことも少なくないそう。だから、一日にたった五センチしか織りあがらないこともしばしばだとか。

 毎日の作業には、目新しいことはなにもない。淡々とした単純作業の繰り返し。
糸を淡々と縒り合わす。縦糸に横糸を淡々と通していく。切れた糸を淡々と繋ぎ合わせる…。作家さんはそうした単純な繰り返しの作業の中に、「生きる」ということを見出したそうだ。

 以前、その作家さんは沖縄の伝統織物に携わり、いろいろな織物を自らの手で織ってきたそうだ。長い間、「沖縄らしさ。伝統。自分のオリジナリティ」を追求してきた彼女は、ある時から、そうしたものを一切手放した。辿り着いた境地は、
 「作品を意図的に『創ろう』とするのではなく、ただ『生まれようとするのを手伝う』だけ。作品を創ろうとしているうちは、何かが違うと感じていたけれど、自分自身が自然になるにつれて、沖縄らしさとか、自分らしさとか、そういったものが気にならなくなった。ただただ、蚕の糸の呼吸に自分の呼吸合わせて、布にしているだけ」
だとか。

 そんな彼女は「生きる」ということについて、こんな風に語る。
「波とか、呼吸とか、心臓の鼓動とか…。そういうものは、すべて単純なリズムの繰り返しで成り立っている。そういう繰り返しのリズムそのものが、『生きる』ということのように思える。
自然の繰り返しのリズムは、一見規則的に見えるけれど、自然に生まれるほんのわずかの違いが密やかに息づいている。
 一本の糸は決して、同じ太さではない。その太さのわずかな違いが、布にした時に、自然の模様として生み出されてくる。
ただ、自然の時が来ると、蚕は糸を吐き出して繭を作るように、私は糸の呼吸に自分を合わせることで、糸が「なりたい布」になるのを手伝うだけ。そうして生まれたのが、この羽衣のような織物なんです」
 とおっしゃっていた。

どうしても、人というものは、「あんな風になりたい。こんな風に状況を変えたい」と無理矢理、自分の思う通りに人生や人や環境をなんとか自分好みに変えようと四苦八苦して悪あがきをしがちだ。そして、失敗するとがっくり落ちこんだりする…。

でも、人生というものは、悪あがきをしたり、無理矢理自分の意図通りに動かそうとしなくても、「起こることは時期がくれば起こるもの」なのかもしれない。
 そして、「失敗のように見えること」も、どんなに避けようとしても、「起こるべき時には起こること」の一つに過ぎないのかもしれない。
 
どんなに腕の立つ織物職人でも、難しい仕事をしている時には、湿度、風、糸の緊張など、自分の力ではどうにもならない自然の力の成り行きの中で糸が切れることがある。それは、「失敗」に見えるけれど、そうではなく、様々な環境要因でたまたま起こったことに過ぎない。そして、糸が切れたことをいたずらに嘆かず、
「これも、繰り返される一つの波」
と、淡々と糸を繋げていけば、何事もなかったかのように、布は織り上げられていく。
 あるいは、糸を繋ぎなおしたお蔭で、糸が切れる前には予想もしなかったような美しい模様が布の中に織りこまれることになるのかもしれない…。それこそ、「天の采配で、天が産み出した模様」に違いない。

そして、素晴らしいことを成し遂げようと意識しなくても、糸が切れれば「糸を繋ごう」という心の衝動は必ず起こる。糸が足りなくなれば、「糸を紡ごう」という衝動が起こる。布が織りあがれば、機織から切り離そうという衝動が起こる。

人生も同じかもしれない。
「すごいことを成し遂げよう」と無理に自分の心を駆り立てなくても、自然の流れがくれば、「これをやりたい」と相応しい心の衝動が起こる。そうした自然な心の衝動が起こるまで、ただ淡々と同じ繰り返しを続けることもまた「自然に生きる」ということなのかもしれない。

自然に淡々と日々を積み重ねるだけでも、季節は巡り、木々は芽吹き、花が咲き、必ず実りの秋が来る。
人生も同じなのかもしれない。
自然に紡ぎ出されてくる人生のリズムに、淡々と乗って、淡々と湧き出てくる静かな心の動きのままに生きていけたらなあ…と思う。
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