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子供の性質
2007 / 03 / 13 ( Tue )
 先日、出産を間近に控えた旧友と久々に会った。

話をいろいろ聞いていて、
「死ぬことと、生まれることって、本当に似ているんだなあ」
とつくづく感じた。

私は今まで、
「一番いい妊娠生活とは、粗食に近い自然な食事を食べて、お腹の子供とたっぷりコミュニケーションをとって、昔ながらの自然に近い出産方法で産むこと」
だと思っていた。
でも、この考え方って、介護でいえば「死ぬならホスピスが一番」という偏った考え方と変わりないんだと痛感。
出産する場所選びや妊娠中の生活は、介護と一緒で、妊婦さんとお腹の子の性格、置かれている状況を考えて選んだ方がいいのだとわかった。

 生まれたばかりの赤ちゃんはしゃべらないので、世の中の多くの人は、
「生まれた時、赤ちゃんはみんな同じ性格、性質だ」
と誤解しているようだ。
でも、赤ちゃんは生まれ落ちたときから、はっきりした性格や個性をそれぞれ持っていて、さらに「育てられ方」という影響が加わることで、独自の個性が生まれてくる。それは、子供を観察していればよくわかる。

 でも、今回さらに、友人と話をしてみて、
 「ああ、子供というのはお腹の中にいるときから、すでに強烈な個性を持っているんだ」
 と感じた。

 そう考えると、世間で言われているような胎教とか、体にいい食事を無理矢理型どおりに遂行するのは、お腹の子供の性格によってはストレスに違いない。
 丁度、世間の親が「よい幼稚園に入るためには、0歳児教育が肝心。よい中学校に入るためには、小学校低学年のうちから塾へ」とやっきになるけれど、子供によっては勉強を強いたりせず、マイペースで日々を過ごさせた方が、親子ともにトラブルが少なく、気持ちよい生活が送れるというのと同じなのだろう。

 また、世間一般的には、妊娠中にジャンクフードなんてもってのほか…だろうけど、人によっては「つわり中もジャンクフードならおいしい。お腹の子も喜んでいるみたい」と感じるなら、多分それが正解なのだ。

そう考えると、より実践的な理想的妊娠生活というのは、妊娠中から自分と子どもの好みや性質を分けて考えて、
「私はこれが好きだけれど、この子は何が好きなんだろう? 私はこんな風に生活したいけれど、この子はどういう生活を望んでいるんだろう」
 と子供の個性を尊重した上で、親の人生や願いとの妥協点を常に模索していくことかもしれない。

 でもまあ、お腹の中にいるときから、
「最低限の生活を保証してもらえば、あとは自力でやります」
って自立した性格の子なら、どんな親でも大丈夫だろうし、
「あえて、自分と性格の違う親のところに生まれて、苦労をすることでいろいろな体験をしてみたい」
 と思って生まれてくる子なら、お腹の中にいるときから振り回されるのも本望かもしれない。

 結局、子供自身が、それなりに親を選んで生まれてくるなら、「親がどういう妊娠生活を送って、どうやって育ててくれるか」ということだって、ある程度予測して生まれてくるはず(生まれた後は、自分が選んだということは忘れてしまうだろうけど・・・)。
 
そう考えると、軒並み出ている出産雑誌よろしく「こういう妊娠生活をして、こういう子育てをした方がいいよ」と十羽一絡げにして、一般論を述べても意味がない。
もし、「どういう妊娠生活を送ったらいいのかしら?」と聞かれたならば、介護のアドバイス同様、じっくり話を聞いて、妊婦さんとお腹の子供の性格を捉えたうえで、
「こういう方法あたりがいいように思うけど、あなた自身はどう思う? お腹の子はどう感じているように思う?」
と聞いた上で、それぞれの道探しをサポートするのがベストだろうなあと思った。

話は変わって…。

ちょっと前に、高齢者住宅へ仕事に行った時、ある認知症の方について、スタッフから相談を受けた。
夜になると不安が強くて、コールが頻回で「うつ傾向」と診断されているらしい。関わってみると、確かに意識がはっきりしているときは、「この先どうなるのだろう。どんどん悪くなるんじゃないか」と不安が頭にもたげてくるようだった。
でも、認知症の症状が出ていて「自分が置かれている状況や、不安の存在を忘れているとき」には、その場にいるスタッフや他のお年寄りの中で、一番幸せな感覚を感じていることもわかった。

つまり、普段天国のようなものすごい幸せな感覚の中にいるだけに、ほんのちょっとでも不安な感覚が戻ってくると、普通の人以上に不安を強く感じてしまうようなのだ。
本当に、幸せと不幸せという感覚は面白い関係にあるものだ。

スタッフには、
「悩みがあるからといって、その人の人生が自分より不幸で、かわいそうかどうかはわかりませんよ。「認知症にかかって、すべてを忘れて、今この瞬間の最高に幸せな感覚の中にずっとひたっていられる彼女」は、私たちよりずっと、本当の幸せを味わっているかもしれません。
「夜不安にならないように。夜、よく眠れるように」という理由で、昼間、至福の中でまどろんでいる彼女を叩き起こすのは、かえって不安を掻き立てることになって、余計なお世話かもしれませんよ」
と話しながら、私自身もハッとした。

「ひまわり」に相談に来る人も、確かにその時には、大変な問題を抱えているかもしれないけれど、「大変むがなくなったら、私よりたくさんの幸せを味わっているかもしれない。
誰しも人は、その人の得意分野では、他人が計り知れないような幸せを味わっているに違いない。
私は「大変を乗り越える方法」「大変の中で幸せを探し出す方法」は、人より何倍も学んできたけれど、「幸せを深める方法」はあまり学んでこなかったような気がする。
謙虚な目で、いろいろな人の生き様をもう一回見直して、「幸せの深め方」を学んでみたいものだ。

…ということで、手始めに「幸福」ならぬ「口福」の追求を考えている。料理のレパートリーを少し増やしてみよう、もう少し手間暇かけて料理を作ってみよう…と決心。

そんなこんなで、先日、辰巳芳子さんの番組を見ていて、結構考えさせられた。
「料理も、生きることも、「時が来るのをじっと待つこと」が必要な時がある」とのこと。
 一番おいしい素材は旬の時期にしか手に入らないものだし、干物を作るにも、煮物を作るにもある一定の時間をかけなければならない。
その一定の時間は、「ひたすら待つ」しかできないのだ。

私は正直言って、「ただ待つ」のは苦手。「目的に向かって努力」している方が楽なタイプ。でも、目標に向かってまっしぐらに走っていると、目に入らないことってたくさんある。じっと立ち止まることで、反対に、周囲が「ゆっくりではあるけれど力強く躍動していること」に気がつくことが多々ある。
「時」という調味料は、料理も人生もおいしい味付けをしてくれるんだなあと思った。

話はさらに変わる。

最近、つくづく、
「辛い過去を手放すのは難しいけれど、それ以上に、幸せな過去、幸せな体験、幸せを感じるものを手放す方が何倍も難しい」
と感じる。

まあ、普通に生活していれば、目の前の「幸せ」をわざわざ手放す必要などないけれど、時には、手放す勇気を持たないとかえって苦しい時もある。たとえ、よいものに対してであっても、「執着する」と苦しみに変わるからだ。

また、人や物や環境は「幸せ」を引き出す手助けはしてくれるけれど、「幸せ」という感覚そのものは、自分の心の中にあるもの。一度感じた幸せは、必ず自分だけの力で生み出すことができる。
…とは理屈ではわかっていても、なかなか、
「はたして、あれだけの幸せを自分だけの力で感じることができるだろうか」
と、不安になるのが人間だよなー、とも思う。

でも、そう思ってしまうのは、「過去の幸せ」に執着して、「あの時と比べて、目の前の幸せは小さい」と比較しているからだよねー。
「幸せすぎる過去を持っていること」や「高い理想を持っていること」は生きるための大きな支えになることもあるけれど、かえって、不幸なこともあるかも・・・。

幸せを大きい、小さいと比較することに夢中にならず、いつも「今目の前に起こっている瞬間」だけに集中できるようになりたいものだ。
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