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日々の話題、あれこれ
2007 / 05 / 25 ( Fri )
 いろいろな人の人生を見ていると、どうやら「とても綿密な計画を立てて生まれてきた人」「アバウトな計画でサプライズを楽しむ人生を選んだ人」「短い人生にいろいろ詰め込んだ人生の人」「風の向くまま気の向くままのんびりの人生を選んだ人」などなど、いろんなパターンがあるらしい。
 また、その「パターン」は、知らず知らずのうちに日々の生活の中ににじみ出ているようだ。
…と、他人のパターンはよくわかるのだが、いかんせん、自分自身のパターンとなると、客観的になれない分、はっきりわかりにくい。

 でも、最近ようやく、
 「私はものすごく綿密に人生計画を立てて生まれてきたのかも・・・」
 と思う。

 なぜかというと、昔の日記、本などを読み返してみて、
「なんだあ。ずっと前から、同じことを書いてるじゃん! 結局、私の人生っていつも同じ方向を向いていて、同じテーマをどんどん掘り下げて深めていただけなんだー! 」
 と痛感したから。
ここまで人生を歩いてきて、起こった出来事を振り返って整理してみると、つくづく「その時考えていることの延長線上に、未来は創造されるんだなあ」と思う。

 たとえば、自分が生きている「現実」が混乱していた時は、自分の心の中(特に潜在意識)に必ず混乱している部分があった(渦中にいるときは、そんなことは認めたくなかったけどね)。 自分自身が自分の「無意識」に対して抵抗したり反発したりしていると、「現実」でも反発、抵抗、争いという問題が発生するんだなあと、今なら思える。
 そして、思考パターンがどう「現実」に現れてくるかが理解できると、ある程度の未来予測はできる。

 ところで、話は変わる。
最近また、「愛情」と「相手との距離」について考えさせられることが多くなった。

以前、何かの本にも書いたけれど、医療介護の現場では、
 母 「遠くに住んでいる娘が、近くにいたら、もっと看病してもらえるのに」
 娘 「近くに住んでいたら、母の面倒をもっと見てあげられるのに」
 と「幸せな闘病生活」を想像しているときの方が、実際にどっぷり看病生活に浸るより幸せ…ということが往々にしてよくある。

それに、家族といっても、いつも仲良しこよしでいられる関係ばかりではない。
「一緒に住んで直接物理的には支え合っているけれど、毎日いがみ合いののしり合って、心ばかりか言葉も通じない」という関係より、「滅多に会えず、直接交流は全くないけれど、毎日最高の愛情を込めて、幸せを祈っている」という方が、何倍も幸せかもしれない。

 私事でいえば、うちの弟と父は一緒に住んでいた頃、お世辞にも「仲良し」と言える関係ではなかった。でも、離れて住むようになってからは、弟の頭の中には常に「親孝行」という文字がよぎるらしく、実際に顔を見せるのは盆暮れくらいなのだが、折に触れて、彼なりに細やかな気配りをしているのが伝わってくる(鈍感な父がどのくらい理解しているかは、不明だが・・・)。

 そんな弟の優しい対応を見る度に私は、
「私って、父に優しくないよなあ」
 と反省したり、
「父と私は価値観も生活観も180度違うんだから仕方ないよね。でも、昔に比べたら、私も寛容になったから、それだけでもまあいいか。私だって、距離が離れていたら、弟と同じくらい優しくできるだろうし」
 と、自分を慰めてみたりもする。

 でも時には、
 「もっと優しい態度で接することができる自分になるためには、もう少し父と距離を取った方がいいのかなあ」
 と思うこともある。

 それでも、私が生活スタンスを変えないのは、たぶん、
「苦手な価値観、生活観を持った人と一緒に暮らせるくらい、「苦手」を克服したい」
 という気持ちがあるからなんだろうなと思う。

 私の目標は、愛新覚羅夫妻のような「離れていて全く交流のない時でも相手を信じて相手の幸せを祈ることができ、一緒にいるときには、離れているときと同じくらいお互いのことを思いやっていられる家族関係」を作れる自分になること。

でも実際には、ずっと一緒にいたら、離れているときほど「幸せに過ごしているだろうか」と一日中祈ってはいられないだろうし、どんなに気の合う人、どんなに愛情を感じる人と暮らしても、「自分と合わないな」と思う部分は出てくるだろう。
そうした時に、「合わない部分」「苦手な部分」とうまく折り合って、楽しいことだけを見られる「ステキな私」でいるためには、親という切り離しにくい関係を通して、自分自身を鍛えられたことはラッキーなことだったなあと、つくづく思う。
苦手な人を最愛と思えるくらい大切にできたら、どんな人間関係も困らないもんね。

それと、「ステキな私」を目指すのは、「立派な人になるため」とか「世間から認められるため」とかじゃないんだよねーと、最近しみじみ思う。

「ステキな私」でいられたら、なにより私自身がものすごく嬉しいし、楽しい!
「ああ、私、こんなこともできるようになったんだ! すっごーい! すてきステキ!」
という気分になれるなら、相手に腹が立っても10回に1回くらいは我慢できるってだけのこと。

 また、母乳で育つ赤ちゃんにとって、お母さんが自分を最高に大切にして、最高においしいおっぱいを作ってくれたら、それだけで最高の育児であるように、一緒にいる人たちが「私が発した一番気持ちのいいエネルギー」を味わってもらえるなら、こんなに嬉しいことはない。

 私自身と周りの人たちがいつもいいエネルギーを味わって幸せでいられるような「ステキな私」をいっぱい育てたいなあと思う今日この頃。

 話はまた転じて…。

 「はしかが大流行」というニュースを聞いて、「一体、何万人の人が倒れたのかしら??」と思ったら、「OO大学で3人発症」と聞いて、さらにびっくり!
 「はしかなんて、私が子供のころは、流行りだしたら、同じ学級で何人も倒れていたし、近所全員罹ってたのに・・・。 それが、3人かかっただけで大流行なんて?! 」

 そりゃあ、ワクチンが広まって、はしかに罹る人が少なくなって、医者ですら「はしかの患者を見たことがありません」って人が増えてる時代だとは思っていたけど…。
 なんだか本当に過保護な時代になってきたなあと、つくづく思う。
 ほんの小さな病気も罹るのが嫌だからと、ワクチンを打って避けようとする。病気になっても、早く治そうと強力な薬を開発する。
 そのせいで、人間本来が持っているウィルスへの抵抗力がどんどん弱くなって、自力で病気に立ち向かえなくなる。
その一方で、「病気を避けるために」と開発されたワクチンや薬で、取り返しのつかない副作用に苦しんだりする人が出る。

苦しみを避けようとしたことが、かえってややこしいひずみを生みだしてしまうことに、人間って何百年の歴史を経験しても気がつかないものなんだなあと、つくづく思う。

 もしかすると何十年か後の人たちは、「はしかにかかると恐ろしいことになる!」と思い込むようになって、本当にはしかに自力で立ち向かえないほどか弱い人間になるのかもしれないなあ…なんて考える人は、今の時代、あまりいないのかもね。

 話はまたまた転じて…。

 クリニックの近くで、殺人事件が起こり、犯人が目と鼻の先の某病院で発見された。休診日だったから、全く影響を受けなかったけれど、近辺は非常線が張られて、機動隊やら警察犬やら報道局の人々やらがたくさん出て、大騒ぎだったらしい。
 事件の内容をよくよく聞けば、ご近所トラブルが原因らしいから、周りが煽りたてたりしなければ、さらに危険が重なることはなさそうな感じだった。
 でも、あれだけの大騒ぎになったら、犯人は追いつめられるだろうし、追いつめられると誰でも何をするかわからない状態になることだってある。
さらに、世間が大騒ぎすればするほど、本当はさほど大変な状況でなくても、大騒ぎを見た人たちは「これからものすごく大変なことが起こるぞ!」という気分になったりする。
 これも一種のマインドコントロールだよなーと思う。
 
 世の中、知らず知らずのうちにいろいろなマインドコントロールや集団心理が働いているから、「社会や周りに煽られてないか」と自分に問いかけることは大事かもね。
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