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塞翁が馬
2007 / 09 / 12 ( Wed )
「このままだと、トラブルが発生するなー」とわかっていながらも、どうにも阻止できず、ただ起こるのを見守ることしかできない時がある。
わかっているのに見守るのは辛い。トラブルが起こるのに気がつかない方が気楽だよなあと思ったりもする。

それでも、なんとかトラブルを阻止したくて、
「このまま続けると病気になるよ」
「それは危ないよ。事故を起こしたら大変」
など、あれこれ注意を促してみる。でも、本人が納得していないと、忠告は耳に入らないもんだ。

誰だってできることなら、トラブルなんてない方がいいと思う。でも、赤ちゃんが転ぶことなしに歩くことを学べないように、失敗無くして人生を学ぶことはできない。

どうにも阻止できないトラブルというのは、もしかすると、神様の目から見たら、
「トラブルが発生した方が、長い目でみたら利益を生むことが潜んでいる」
のかもしれない。

たとえば、誤って子供を事故死させた親が、その後「子供を亡くした親の会」を作ってたくさんの人々の心を救ったり、地震災害に遭った人々が次に起こった地震の時に最高の援助者になったり…。

 トラブルが起こった一瞬だけを見ると、とてつもなく不幸な出来事に見えることでも、未来において素晴らしい功績を生む礎になっていることは少なくない。

 人間は神様ではないから、ずっと先の未来まで見据えて、今日の出来事を見つめることが難しい。だからこそ、万事「塞翁が馬」で、とてつもなく不幸な出来事が起こったときほど、
 「このことが、神の目から見たら、未来において大きな幸せの礎になるのかもしれない」
ということをいつも心に留めておきたいし、そうあることを常に祈っていたいと思う。

閑話休題。

 先日、何気ない所作の美しさに感動する機会があった。
  水を汲む、歩く、空を見るといったごくありふれた動きでも、「動き」と「心」が完全に一致した時、そこにはものすごい美と癒しが生まれるんだなあと、しみじみ思った。

 たとえば、名人が一服の茶を立てるときには、茶碗、茶筅、お湯、庭、客、自分自身が完全に一つと感じられるほどに、瞬間瞬間の茶事に集中しているのかもしれない。名人の一服の茶に素晴らしい癒しの効果があるのは、そういう理由からなのだろう。
 
 たぶん、「自分がやっていること」と「心」が100%一致した状態で、完全に「今」に存在することができたら、たとえ歩いているだけでも周りの人は癒されるような気がする。
でも、人には無意識の煩悩がいっぱいあるから、なかなか100%「今」に集中するのはものすごく難しい。
あるいは、キリストとかブッダは、もしかすると24時間365日心と動きが一致できるくらい、自分自身の心を訓練できていたのかもしれない。
 だとしたら、本当にすごいなあ。
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