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人々が織りなすもの
2008 / 07 / 08 ( Tue )
先日、ピンチヒッターで誘われた東儀秀樹さんと中国民族楽団のコラボ・コンサートに行ってびっくり!

コンサートで、
「沖縄の子供たちの『肝高の阿麻和利』というミュージカルに感動して、新曲を作りました(最新アルバムに「キムタカ」の名で入っている)」
と披露された曲…。

忘れもしない、まさしく数年前、私の知人が、
「なんとしても、この舞台を東京で上演したい!!」
と必死で教育委員会や学校や市民団体の間を駆けずりまわって、資金工作をし、ようやく上演にこぎつけた舞台のテーマ曲だった!

この舞台は東京公演以来ブームに火が付き、沖縄でも再評価されてロングラン公演になったと聞く。…ということは、知人がいなかったら、東儀さんの曲は生まれていなかったかもしれない。
そして、東儀さんの曲を通して、「阿麻和利の舞台」が世界的に有名になったら、
「この舞台が有名になったきっかけは、ある数人の主婦たちの感動だったんだよ」
なんて言われる日が来るのかも…。
そう考えると、もしかして、「ごくごく平凡に終わったように見える隣りのおじさんの人生が、100年後の世界を動かすキーになる人生だった」なんてこともあるかも…なんて思う。

ところで、篳篥を歌声やエレキギターのように使い、ロックやジャズや民族音楽とフュージョンさせる東儀さんを見ていて、
「格式高い雅楽界の人達の中には、こういう音楽をあまり好まない人もいるかも…。
年配の人たちが、「派手メイクの金髪ギャルが、ミニスカート丈の浴衣にレースを纏い、コサージュを付け、キラキラの帯どめで装う姿」に眉をひそめるのと同じ感覚? 」
なんて思った。

でも、もしかしたら、文化とか芸術とか芸能というものは、そうやって時代の流れに合せて変化していくのが自然な姿かもしれない。
現代では古典文学の最高峰とされる「源氏物語」だって、当時の頭の固い人が現代風に評価したら「低俗なエロ小説」といったかもしれないし…?!

音楽、絵画、舞踊、工芸などの芸術は、理屈抜きでダイレクトに、人の心の深い所に広がっている世界観、風景、感情…そして、まだ見ぬ世界の雄大な自然とそこに生きる人々の暮らしの匂いや息づかいまでを、ありありと伝えることができる世界共通言語だ。
でも、世界共通言語が存在しても、お互いの理解を深め合うためには、一度自国の習慣、枠組み、考え方を横に置いて、未知のものを理屈抜きで受け入れる柔軟さが必要な気もする。
そう考えると、これからの時代、既成の枠を理解した上で、それを打ち壊して別の枠組みとフュージョンしていける「異端児」の存在は必須なのかもしれないとも思う。

そういえば以前、お能の師匠が
「伝統芸能の伝承は、未来に生まれるであろうたった一人の天才のために、過去の遺産を寸分たがわず繋いでいく。何十年、何百年と積み重ねられてきた数えきれないほどの凡人たちの人生があってはじめて、一人の天才の人生が結実するのかもしれない」
とつぶやくのを聞いたことがある。
もしかすると、「何百年かけて結実した天才」というのは、あるいは、東儀さんのように伝統の世界から見たら「異端児」なのかもしれない。

ならば、新しい時代を担う輝かしい才能を持った「異端児」たちには、伸び伸びとその才能を伸ばしてほしいと思う。
もし、類まれな才能を持ちながらも、評価されないどころか、社会につぶされそうな「異端児」に出会った時には、
「才能を発揮すべき場所はここではないのかもしれない。未来の別の場所で、大きく花開くために、ここで評価されないのかもしれない。あなたがあなたらしく、楽しく素晴らしい形で花開ける場はきっとどこかにあるはず!」
と、才能を引き出すように応援していきたいものだ。
人間の可能性を引き出すこと…それも、一つのアートだと思う。

たとえていえば、「肉体」は一つの「楽器」だ。
誰一人として、同じ音色を持たない、世界に一つの「その人固有の楽器」。

「この「楽器」は、どんな風に鳴らしたら、一番いい「音」が出るんだろう。どんな「音色」を奏でたくて、どんな「心の宇宙」を表現したくて、この「楽器」はこの世に生み出されたのだろう?
この「楽器」の中にはどんな可能性が秘められているんだろう?
もし、私がこの「楽器」を手にしていたら、どんな音を奏でるだろう。どんな曲を作るだろう。どんな世界観を表現するだろう。
ああ、でも、私はこの「楽器」を持ってない! この「楽器」は奏でられない!
この「楽器」の音色を最高に引き出してみたい!
そして、その時生まれる最高の曲を聴いてみたい!!」
そんな衝動に突き動かされて、私は人と関わっているような気がする。

たぶん、私が東儀さんより「東儀母」、千住三兄妹より「千住母」に惹かれるのは、彼女らもまた、子供という「楽器」の可能性を引き出すことに、ワクワクするような生き方をしていたから・・・なのかも。

ところで、ヘレン・ケラーとサリバン先生がこの世に結実する前に、実は、何組もの「ヘレンとサリバン先生」がこの世に生まれ、目と耳が不自由な人と健常者とのコミュニケーション方法を模索し、実用化することに貢献していたのだとか…。
そう考えると、何となく終わってしまう私たちの平凡な人生も、未来の誰かと繋がっているのかも…なんて思う。
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